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スクラップ-ちょっといい話

このページでは,最近読んだ本や雑誌,新聞から,「これはいいな」と感じた記事を紹介していきます。

いてくれるだけで嬉しいから

名前を忘れてしまいましたが,ある雑誌に載っていた矢崎節夫氏(児童文学作家)の講演「みんなちがって,みんないい-こだまする金子みすゞの心」の一節です。
早速コピーをとって子どもたちに配りましたが,やはり心動かされたようです。
本屋さんに並んでいる金子みすゞの詩集を何となく手にとって,斜め読みしたことはありましたが,近いうちにしっかり味わってみたいと思っています。
金子みすゞと直接関係はないけれど,特に心打たれた,神戸の少女の逸話を紹介します。


金子 みすゞ
こッつん こッつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠になって
よい麦生むよ

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路になって
車を通すよ。

打(ぶ)たれぬ土は
踏まれぬ土は
要らない土か

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

「土」という詩は,この世の中には一つとして無用なものはないことに気づかせてくれます。人類も同じです。私たちにとって,子どもはいるだけで,いてくれるだけでいいんです。

例えば今この瞬間に,世界中から子どもたちが全部消えてしまい,新しい命が生まれないとなったら皆さんは今日と同じ明日を過ごすことができますか。多分,絶望するしかないでしょう。なぜならば,私たちの命はあと何十年かで確実に消えます。私たちが絶望することなく,昨日と同じ今日を過ごすことができるのも,自分を育てるためにいろんな勉強をしたり,夢や理想や希望を持てるのも,人類の命が確実に未来に続いていくと,無意識で知っているからです。

私たちを絶望させないでくれる,子どもという大切な存在に対して,「いてくれるだけで嬉しい」ということを伝えられないとしたら,私たちは本当の大人ではなくなったのかもしれません。大人になるのは,年を重ねる行為ではありません。かつて自分が聞いた嬉しい言葉や嬉しい行為を,確実に未来に伝えてこそ,初めて大人というものが成り立つのです。未来に手渡さず,自分のところで止めてしまうとしたら,とても寂しい存在になってしまいます。

阪神・淡路大震災のとき,耳の聞こえない両親を持つ小学校五年生の女の子がいました。水やお弁当の配給は,耳が聞こえる女の子が両親の代わりに取りに行きました。それをテレビがずっと追っていて,両親にその子について語ってもらいました。

まず,お母さんが画面いっぱいに写り,「この子がいなければ,私たちは生きていけませんでした」と言いました。次に,「この子は……」と言った瞬間,声が震えました。

カメラマンが気づいてカメラをずっと引くと,三人が座っていて,耳が聞こえない両親は手話をし,その子がそれを通訳していたんです。つまり,最初はいつも通り通訳できたけれど,二度目にお母さんが,「この子は……」と言った瞬間,この子って自分のことだと気づいた女の子は,胸がいっぱいになって声が震えたんですね。お母さんは,「この子は私たちの命の恩人です」と言いました。次にお父さんが手話をしました。その瞬間,女の子の目に涙がワーツとあふれ,その涙をこぼさないように上を向きながら,一言一言つむぐように,訳しました。

「この子は私たちの宝物です」。

なんていい言葉を,いいときにお父さんは言ってあげたんでしょうか。なんといいときにその子は聞けたんでしょうか。

割れた急須

2015年2月8日(日)
毎週月曜,水曜,金曜の朝,DATE FMで放送される番組に『ありがとう,先生!』という番組があります。
つらい時,悲しい時,卒業の日,人生の様々な節目に「先生からもらった忘れられないひとこと」を紹介しています。
短い放送ですが,コツコツと頑張る先生方の背中をそっと押してくれる温かい番組です。

TOKYO FMが発行した番組と同名の書籍から,次のことばを紹介します。
エピソードは創作ということですが,ジーンとくる話です。

◇ 何もしない人は,失敗もしません

急須を割ってしまったことを,先生に報告に行ったとき,慰めてくださるかのように,この言葉をかけてくれました。ずっと心に残っています。

風が,痛いくらい冷たかった。
ビルとビルの間を通り扱ける風が,我が物顔で頬をかすめる。隣りを歩く山下部長がコートの襟を立てて「うー」と体を震わせた。
「すみません」という僕の言葉は部長に届かず風に持っていかれる。
得意先の会社を出てからずっと部長は無言だ。無理もない。
「無能な部下のせいで休みを返上して謝りにつきあうなんて,全くついていない」そう思っているに違いない。
夕闇がいつしか空を群青色に染めていた。
誰もいないオフィス街には風の音と,僕たちの靴音だけが響いている。

僕,村田健一は,中堅の広告会社に勤めている。
入社3年目。そろそろ結果が欲しい頃だ。
焦りがあったのかもしれない。僕が担当する食品会社のイベントでミスをしてしまった。
たくさん集まった。大盛況で成功といってよかった。
スポンサーはブースを出していて,新製品のレトルトカレーの試食には人だかり。あきらかに人手は足りなかった。
『かれーどん』というキャラクターの着ぐるみ係のひとも,接客に徹していた。
ブースの裏,主のいない『かれーどん』。子供たちのためにも,そうだ,僕が中に入って……。
何か役に立ちたいという思いから,僕はその着ぐるみを着た。子どもたちが周りに集まる。テンションが上がった。
『かれーどん』は音楽に合わせてカレーダンスを華麗に踊ることになっている。
僕は見よう見まねで手足を動かす。喝采。うれしくなる。
さらに激しく踊ったとき……転んだ。
それもかなり激しくすべって,倒れた。
ブースに突っ込む。きゃあという悲鳴。幸いお客さまに怪我はなかったが,『かれ-どん』は,鍋のカレーを浴び,使い物にならなくなった。
スポンサーの現場主任は事態を重く見て,すぐにわが社の部長に連絡した。
きっと出入り禁止だろうなあ……。

「一杯,飲んでいくか」 閻魔大王のような低い声で部長が言った。
「はい」
きっと居酒屋で僕は裁かれる。地獄行き……。
休日の居酒屋は閑散としていた。
空気が寒々している。そもそも居酒屋というところは,ぎっしり人が入っていて,大声で話したり,赤ら顔の人がふらふらトイレに立つのを見るから,こっちも飲む気になるんだと思い至る。
カウンターに並んで腰掛ける。
「本日,ひと口カレーがサービスでつきますが,いかがいたしましょうか?」
満面の笑顔の女性店員が言う。
僕と部長は目を見合わせて,「あ,カレーはいいです」と僕が答えた。
熱燗を手酌で飲む山下部長。長い沈黙のあと,彼はおもむろに話し始めた。

「小学6年のときにな,学校に卒業生がやってきた。その人は宇宙を研究しているえらい教授で, 特別授業っていうのをオレたちにしてくれることになったんだ。オレは学級委員だったし,そのえらい教授のことをテレビで観たことがあり, 興奮していたんだろうな。何か役に立ちたいと思って,用務員室に急須を借りにいった。お客さんが来たらお茶を出すものだと家で学習してたんだな。ところが,あわてて廊下を走ったので……ガシャーン。
転んで急須は粉々に割れてしまった。オレは下敷きにその破片を集めて,仕方なく職員室に報告に行った。担任は剣道部の顧問もやってるキリッとした黒いメガネをかけた女の先生だった。
先生,ごめんなさい。とオレは言った。ああ,怒鳴られるかな……。その先生はな,たったひとこと,こう言ったんだ。
『何もしないひとは,失敗もしません』」

そこで部長は,また手酌で小さな御猪口に酒を注いだ。
「何もしない人は,失敗もしない。そういうことだ,村田」
あったかいものがこみあげてきて,それが目のふちまでやってきた。
「バカか,泣くやつがあるか」
優しい声だった。
『ありがとう,先生!』 ジブラルタ生命-飯塚書店 2013

ありがとうの詩

2012年1月27日(金)

「ありがとうね」「ごくろうさま」
大地を切り刻むような激しい揺れが東日本を襲ったあの日以来,何度これらのことばを交わしたことだろう。
あの日の夕方から勤務している白石中学校の武道館が避難所となり,一時は4百人を越える人々が身を寄せ合って過ごした。
混乱のさ中,自助・共助の精神を発揮して,避難所運営の中心を担っていただいたのが学校に隣接する南町自治会の皆さんだった。
食糧の調達,炊き出し,地域の巡回と在宅者への声がけ,環境整備など,世代を超えて協力し合い,使命感に燃えて行動する姿に,本校職員もしっかりせねばとの思いを強くした。
子どもたちも水汲みやトイレ掃除などの貴重な戦力として生かしていただいた。
皆さんからかけていただいた「ありがとうね」「ごくろうさま」のことばに,子どもたちも充実感と達成感を味わい,成長することができた。

あの日々から10ヶ月以上が過ぎた。
河北新報社が昨年の暮れに募集した「3・11大震災復興支援企画-ありがとうの詩(うた)」を読んで,何度涙したことだろう。
心を揺さぶる素朴なことば,感謝,郷愁,悔恨,決意,……。
是非,皆さんも読んで欲しい。

ありがとがす

だらだらの汗 日焼けした顔
泥まみれの作業服
おめえ様とすれちがう時
おらは目頭が熱くなるちゃ
宿舎にもどって行くおめえ様の背中に向かい
おらは心の中で最敬礼するのしゃ
おめえ様は仕事だからと実に格好いい
おめえ様にも緑豊かな故里があり
心やさしい家族が待っているべ
ほんでも もうちょっとだけ
おらに力を貸してけねが
おらも精一杯努力すっから
必ず夜の次には朝がきて
泣いたあとには笑うときがくるちゃ
この前テレビでどこかのばあちゃんが
ありがとがすと何回も頭を下げていたのしゃ
おらも同じだ
ありがとがす ありがとがす ありがとがす
おらも精一杯努力すっから
ありがとがす
(岩手県一関市・高橋悦郎さん)62歳

ふるさと閖上

夜明けの町に
がらん がらん
鐘の音が響く
にぎやかな競りの声
荷籠を背負った
五十集(いさば)のおばさん
活気にみちた 港町 閖上

広い田圃に
さらさらと
緑の風が揺れる
土手のあんどん松
唄いながらあるいた
夕焼けの道
なつかしい ふるさと 閖上

おんつぁーん って呼ぶと
おーっ って答える
渡し舟
水に手を入れて
ぎぃーこ ぎぃーこ
揺られながら岸に着いた
のどかな町 閖上

佛さまを迎える
迎え火
佛さまを送る
送り火
盆火がはじけて
だんごの焼ける香ばしい匂い
子どもたちの笑顔が赤い
楽しかったお盆のころ

灯籠に
名前を書いて 灯をともす
また来てね 元気でね
海に向かって流れていく
灯籠を追って
どこまでも 川岸を走った
子どものころの 思い出

まぼろしのように
消えてしまった
小さな港町 閖上
思い出して
あの人 この人
忘れないで
小さな港町 閖上
(仙台市青葉区・早坂泰子さん)78歳

子は親の心を実演する名優である

2012年1月22日(日)
ローランドゴリラのマリのこの話に,余計な解説など必要ないでしょう。
学校の教師としても,親としても,地域の大人としても,「子は親の心を実演する名優である」という一事を忘れてはいけないと思います。

マリもいい「父親」をもって幸せ者です。

旭山動物園にはゴンタとマリという二頭のローランドゴリラがいました。クローバーを食べている夏の間は,とてもいい太さのウンチをします。人間のものとはちがい,まるで草食動物のようにしっかりと絞られたウンチです。サルなどは雑食だから,ベドッとした人間のようなウンチですが,それに比べてゴリラはじつに形のいいウンチなのです。
問題は,クローバーのない冬場に何を食べさせたら,いいウンチをしてもらえるのかということです。いろいろ調べてみると,野生のゴリラはどうやらセロリの野生種を好んで食べていることがわかり,さっそく取り寄せてみました。
ゴリラの担当は,これまた牧田さんです。セロリを食べさせるのに,うまくいかないはずはないと思っていたのですが,これが意外と難航しました。

マリと一対一で座った牧田さん,「はい,リンゴ」と言ってリンゴを差し出すと,マリはおいしそうに食べました。「つぎはミカン」「これはパン」と差し出すと,大丈夫。ところが,セロリを「はい」と口もとに持っていても,まったく関心を示しません。
いったいどうしてなのか。牧田さんは,マリが赤ちゃんのころからずっと担当していましたから,オレの言うことは聞いてくれるだろうという思いこみもあったのでしょう。無理やり食べさせようとしたのです。するとマリは,おもむろにそのセロリをつかむや,牧田さんの口の中に押し込みました。
じつは牧田さん,セロリが大っきらい。ところがそこは百戦錬磨の牧田さんです。 差し出されたセロリを見てニカッと笑い,「ありがとう」と言ってから,ガリガリと食べはじめました。 食べ終わると,また笑顔で「おいしい」。
するとどうでしょう。それを見ていたマリは,新しいセロリを手にとって,食べはじめるではないですか。
マリはセロリのことが,食わず嫌いだったのですね。

でもその牧田さん,その後,顔をくっしゃくしゃにして嘆いていました。
「小菅,オレな,いまセロリ食った。ニコニコ笑って食ったさ。そうしたらマリが食べはじめてよ。だけどまずいべ,あれ」
さすがは牧田さん!マリもいい「父親」をもって幸せ者です。
『ペンギンの教え』 小菅正夫

話し相手になること

2012年1月15日(日)
「人の心に寄り添う」ということの大切さやコミュニケーションの大切さを,私自身よく口にしますが,実はよく分かっていないような気がします。
心を通わせることは,頭で考えるようなことではなく,ここに紹介したエピソードのように,実はごくごくシンプルなことなのだと思います。
「お茶を飲みながら,耳を傾ける」-何気ない日常の一コマですが,これがコミュニケーションの原点なんだとあらためて感じさせられた一文です。

個人を敬う介護の環境を創り出す

米国高齢者福祉研究機関ディレクター 草野可奈子

”心のケア”ならできる,と

アメリカの大学に進学されますが,何かきっかけがあったのですか

高2の夏休みに生物の三浦国男先生から宿題として出された感想文のリポートがきっかけになったのですが, 先生はとてもユニークで楽しい先生で,授業もほかの先生とはちょっと違っていて興味深いものでした。
その先生が,夏休みの宿題用にと教室に抱えてきた段ボール箱には,山崎章郎さんが書かれた『病院で死ぬということ』 が生徒の人数分ありました。
この本を読んだとき,死を目前にして,明確に死を意識して生きている患者さんと直接かかわって, その死の尊厳を守り続ける医師からのメッセージが強く心に響いて,全身が震えるほどの衝撃を受けました。
読み始めはかわいそうな内容としか思えなかったのですが,読み進むにつれて, 人生をいかに前向きに生きていくか,そして,死を前向きに考えることが大切なのだというように読めるようになっていったんです。
死は涙を誘うものです。それにしても,淡々と語られるありのままの真実から, これほどまでに涙を流すなんて,と思った記憶がいまだに鮮明に残っています。
この本の前半では,一般病院でのターミナル・ケアと呼ばれる終末期医療の限界と悲惨な実態を, そして後半では,患者の立場に立つことによって生きる希望を描いています。
そして,筆者が医者として経験してきたさまざまな現実をとおしてたどり着いた死に対する意見と, そこから派生するホスピスについての考えが述べられていました。
どんな風に死にたいか,ではなく,時間が限られた最後の人生をどう生きたいかを, 本の中で紹介される患者さんたちは考えざるを得なかったのでしょう。
病院のベッドで,無言の叫びを続けながら命が消えていくのではなく,家族と言葉を交わしながら永い眠りに就きたい, それも気づかぬうちに……。
紹介されている情景の一つに,末期ガンの痛みに耐えきれず,夜中に何度もナース・コールを押して叫び続ける患者さんのことがありました。 看護師もまたかと思いつつ薬を与えますが,またナース・コールが押される。 何度もそんなことを繰り返した後で,一人の看護師が薬の代わりにお茶をもっていって話し相手になると,それ以来ナース・コールは鳴りやみました。
これを読んだとき,私も医者にはなれなくても,「心のケア」はできるのではないかと思ったことが,ソーシャル・ワーカーを目指すきっかけになりました。
Gakken 『教育ジャーナル』 2011年5月号

ひとつになって 君と生きる 共に生きる

2012年1月6日(金)
長渕剛。
デビュー以来,何かと話題に事欠かない長渕剛だが,彼の歌に励まされ背中を押されることも一度ならずあった。
共感する部分もあったし,がっかりすることもあった。
しかし,2011年暮れの報道で,東日本大震災後の彼の活動を知り,胸が熱くなった。
東日本大震災による壊滅的な被害を報道で知りながら,
「被災地を遠く離れた地で手をこまねいていていいのか。かと言って,歌手である自分にできることはあるのか」
悩んだという。
モニターの中には,意を決して被災地を訪れ,悲嘆にくれる人々を励まし, 最前線で救命救助や復旧・復興に当たる自衛隊員を讃え,力づける彼の姿があった。

芦田愛菜ちゃんや鈴木福くんの最年少出場などで話題を呼んだ紅白歌合戦だったが, 万感の思いを込めた猪苗代湖ズや西田敏行の熱唱に,歌の力を感じた。
津波と火災が直撃した門脇小学校の校庭での,長渕剛の語りと詩,歌声は,胸にまっすぐに伝わってきた。

私も何かしなくては,自分の持ち味や力の及ぶ範囲で,行動を起こさなくては。
大震災で肉親を亡くした方々,生業や住む家を失った方々,故郷を失った方々と 「ひとつになって 君と生きる 共に生きる」-その気持ちを持ち続けよう。

ひとつ

ひとりぼっちに させてごめんね
もう二度と
離さない 離れない 離したくない

君によりそい そばに生きるよ
もう二度と
忘れない 忘れさせない 忘れたくない

悲しみは どこから やってきて
悲しみは どこへ 行くんだろう
いくら考えても わからないから
僕は悲しみを 抱きしめようと 決めた

ひとつになって
ずっといっしょに 共に生きる
ひとつになって
君と生きる 共に生きる

月のしずくが 涙にゆれて
海に光る
逢いたくて 逢えなくて それでも僕は探した
星が降る夜 君を想い
ずうっと 歩いたよ
明日きっと 明日きっと しあわせになれるね

永遠のしあわせは どこからやってきて
永遠のしあわせは どこへ行くんだろう
いくら考えても わからないから
僕は悲しみを 抱きしめようと 決めた

ひとつになって
ずっといっしょに 共に生きる
ひとつになって
君と生きる 共に生きる
『ひとつ』 作詞作曲:長渕剛

一所懸命働く姿から学ぶ

2009年9月21日(月)
日本理化学工業株式会社は教室には欠かせないチョークの老舗メーカーですが,2005年2月に企業フィランソロピー大賞・特別賞の <社会共生賞>を授賞したそうです。
日本理化学工業株式会社のWEBページに,代表取締役の大山泰弘さんの授賞あいさつが掲載されています。

心に響いたのは禅のお坊さんの言葉でした。
私は重度の知的障がい者は施設で保護されていれば,一生楽に暮らせるのに,仕事でいろいろ注意されても, 施設に帰りたがらないのを不思議に思って,「なぜかわからないのですが」と尋ねたとき, お坊さんは,一瞬考えると思っていたところ,即座に「当たり前ですよ」と云われました。
大山さんはほどほどに物やお金があるでしょう。それで幸せと思っていますか。
究極の幸せは四つです。
一つ目は「人に愛されること」,二つ目は「人に褒められること」,三つ目は「人の役に立つこと」,四つ目は「人に必要とされること」です。
愛はともかく,あとの三つは仕事で得られることですよ

大山さんは,企業は人間みんなが求める究極の幸せを与える役割を果たしていることに気がつきました,と話されています。

日本理化学工業は,障がい者の積極的な雇用を進め,今では従業員の過半数を超えているそうです。

私の知人がある日,チョーク工場を見学に行ったんだそうです。そこで,すばらしい話をお土産に帰ってきましたので,ご紹介します。

いまから50年前,まだ小さかったチョーク工場にひとりの先生が社長を訪ねてやってきました。
その人は,近所の養護学校の先生でした。
「社長,ひとつお願いがあります。今度,うちの養護学校を卒業するふたりの女生徒がいるんです。卒業しても,知的障害がありますから,就職するところもありません。でも,私はたとえ1週間でも働くことのすばらしさを教えてあげたいんです。どうか,1週間だけ雇っていただけないでしょうか」
あまりに熱心に頼まれましたから,社長も「じゃあ,1週間だけ」という約束で彼女たちをアルバイトに採用したのです。
会社は朝8時から始まります。でも,彼女たちは毎日7時には玄関に立っていました。雨の日も傘を差して,工場の門が開くのを待っていたそうです。
社長は,彼女たちでもできるような簡単なラベル貼りの仕事を与えました。流れ作業のラインに参加させるわけにはいかなかったからです。そんな雑用のような仕事でも,ふたりは一生懸命に働きます。みんなが10時や昼休み,3時の休憩をとっているのに,少しも休もうとしません。
「そんなに働くと疲れるよ。休んでいいんだよ」
他の従業員が声をかけても,聞こえているのか聞こえていないのか,それこそ夢中になって働くのです。
3日経ち,4日経ち,5日経ち,約束の日が近づいてきました。
その時です。その工場の従業員全員が社長に「この子たちを正社員にしてあげてください」と直談判を始めたのです。驚いた社長が理由を聞くと,「私たちは,彼女たちに働くすばらしさを教えられた」と言うのです。
「つまらない仕事でも,あんなに楽しそうに,一心不乱になって働いている。彼女たちができないところは私たちが全員でカバーしますから,彼女たちを辞めさせないでください」
ふたりの少女が社員の働く意識を,わずか1週間で見事に変えたのです。
社長は,仕事を終えたふたりを呼びました。
「ありがとう,君たちのおかげで,みんなにやる気が生まれたんだ。先生との約束は明日までだけど,君たちさえ良かったら,このままずっとここで働いてくれないか。先生には,僕のほうからお願いする」
こうして,二人は正社員になれたのですが,ラインの作業にはむずかしくてなかなか参加させられません。その時,社長の頭にひらめいたのは,信号機だったそうです。
(この子たちは,この工場まで徒歩でやってくる。ということは,信号を渡れる。だったら,色彩は識別できる。よし,ラインを色で表せば,工程が分かる!)
社長は,それから工程をすべて色別し,彼女たちでも分かるようにしたのです。時間は砂時計にしました。休み時間には肩を叩く。そして,社長は社員たちに言いました。
「人間にはどんな人にも可能性がある。それを引き出すのも,また人間の幸福だ。だから,従来の作業方法を彼女たちに教えるのではなく,作業工程を彼女たちの能力に合わせよう。いいかい,みんな,もし,彼女たちが作業を間違えたら,こちらの指示が悪かったと思うんだよ」
現代では,一定の企業には障害者雇用が義務づけられていますが,なにしろ50年も前の話です。この社長と社員の努力には頭が下がります。
もちろん,彼女たちは社員の力を借りながらも,毎日,毎日,それが天職ではないかと思うほど,働いたそうです。
ある日,社長は更衣室に何気なく置かれた彼女たちのノートをのぞきました。
そこには,子どものような字で,「わからないことは,ききます」と書かれ,次のページをめくると,さらに大きな字で「がんばる」「がんばる」といくつも書いてあったと言います。
知人がこの工場を訪ね,現会長にその話を聞いていたとき,ひとりのおばあさんがお茶を運んできたそうです。会長はそのおばあさんを差して,言いました。
「この方が,最初にやってきたふたりの女学生のうちのひとりです」
日本理化学工業株式会社。その後も,障害者を採用し続け,いまでは全社員の半数以上が障害者です。工場見学者があとを絶ちません。

会長は,大学卒業時,教員になる予定だったけれど,病気がちの父のため,家業の工場を継いだのだそうです。チョークに教育の情熱を注ぎ込んだのかもしれませんね。
『MOKU』 2009 MAY vol.206 にんぽん人情小噺-三遊亭鳳豊

母がいつもやっていることです

2008年7月20日(日)
『先生になってほんとうによかった』
ありきたりの書名でしたが,素知らぬ顔ができず,書店で手に取った本。正直,偶然開いたページにこの文章がありました。
小平市の教育長をされていた三浦英幸先生の遺稿集です。
東京の方とばかり思っていたのですが,宮城県柴田郡柴田町のご出身でした。
槻木小学校,宮城県立宮城農業学校,宮城師範学校などに学び,船岡町の小学校で教鞭をとられた後, 全国的な教育の場で力を試したいとの志を胸に,東京の教員として活躍されました。
小平市立第五中学校の校長として「42km歩け歩け大会」を提案し,多くの困難を乗り越え,職員の結束と志気を高め,ついに実現させ, 大成功させた実践など,強いメッセージに引き込まれ,一気に読んでしまいました。

この「母がいつもやっていることです」という逸話は,ある学校の教頭先生が担任時代の思い出として学校だよりに寄せられた文章を再現したものであり, 三浦先生が強く胸を打たれたものだそうです。

母がいつもやっていることです

A子さんは,いつも朝早く登校してきては,美しい花を持ってきて教室に飾ってくれていました。

ある日のこと,私が教室に行ってみると,古くなった花を机の上において,きれいな花を花瓶に入れていました。
『ありがとう』と声をかけようとしましたが,そのやさしい行動にみとれていました。
新しい花が花瓶にさされたとき,部屋全体が急に明るく,美しく,ゆたかになったような気がしました。
A子さんは,そのあと古い花を紙に包んでゴミ箱に捨てました。そのあとのことです。
A子さんはゴミ箱に手を合わせてお祈りをしました。私はその姿を見て驚きを感じました。

しばらく経ってからA子さんに,どうして,お祈りをしたかたずねました。
するとA子さんは,「先生,みていたのですか,元気で美しいときの花は,みんなから<きれいね>と言われます。しかし,古くなり,みずぼらしくなった花は誰からも見向きもされず,そのまま捨てられます。花は人の手で切られ,ここに持ってこられました。用がなくなり,ただ捨てられていきます。余りにもかわいそうなので,<ありがとう>と感謝し,祈ったのです。
これは,母がいつもやっていることで,それを私がやっているだけのことです。先生!花ってかわいそうだと思いませんか。私のやったことはおかしいですか。」

私は,この美しい,あたたかい心にふれたような,そして,何か大きなことを忘れており,それを本当に言葉で教えられたような気がした。
A子さん,ありがとう,ありがとう。

語る人貴し
されど
語るとも知らず からだで語る人 さらに貴し
導く人貴し
されど
うしろ姿で導く人 さらに貴し

子どもは失敗して当たり前である

2008年7月19日(土)
昨日,2週間ほど前に行った検査の結果を聞きに,病院にいきました。
その科にはいつも二人の医師がいて診察に当たっているのですが,たまたま学会に出席のため,一人の先生で80名を越す方の診察に当たらなければならないとのことでした。
待ち時間は2時間以上はあるということだったので,昼食を食べてから,近くの書店に立ち寄りました。
気になっていた夜回り先生こと水谷修先生の著書があったので,購入し,うんうんうなずきながら小一時間ほどで読み終えました。
その本が『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』(サンクチュアリ出版 2004年)です。
ここ数年の雇用環境の悪化と経済の低迷の影響で,家庭の状況がかなり深刻になってきています。子どもたちはそんな厳しい状況の中で,必死に,けなげに生きていると感ずることが多くなってきました。
このようなときこそ,ゆったりと,懐を深く,子どもたちを支えてやりたいと思います。
子どもは失敗するもの,失敗を繰り返しながら成長していくもの,大人はこんな基本的な事すら忘れてしまいがちです。

13 また,あした Tomorrow

最近,一人の高校生からメールが届いた。
私の著作『夜回り先生』を本屋で万引きしてしまい,今はすごく後悔しているという。
(俺どうしたらいいですか?)
私はすぐにメールの返事を送った。
(君はもう反省している。それでいいんだよ。君がそう感じてくれただけで嬉しいよ。本屋さんの名前と住所を教えてください。本の代金は先生が送っておくから)
その少年はそれから悩みに悩み,2ヵ月経ってようやくその本屋に足を運んだ。謝ってお金を渡し,すぐに逃げるつもりだったという。しかし店長に呼び止められて観念し,私に相談したことを打ち明けた。するとその店長は涙を流し,自分のポケットマネーで別の本を買ってプレゼントしてくれたそうだ。
彼は一生この出来事を忘れないだろう。
ほんのささいなきっかけかもしれない。
でもたったこれだけのことで,少年の未来は大きく変わるはずだ。

子どもは失敗して当たり前である。
でもその失敗を許せない大人があまりにも多すぎる。
「こんなこともできないのか」
「なにやってるんだ」
「そんなことでどうする」
家庭や学校では,そんな心ない言葉が満ちあふれている。
そんなに子どもはダメなんだろうか。私はそう思わない。
大人の厳しい言葉が,今,心優しい子どもたちをどんどん闇に追い込んでいる。自分の体を傷つけたり,部屋で孤立する子どもは増える一方だ。孤独に苦しむ子どもたちはインターネットやEメールを通して,似た者同士でつながり,死について語り合っている。
誰がこの状況を止められるのだろうか。

今,日本の子どもたちは限界に来ていると思う。
もしかしたら,少年犯罪の増加は止められないかもしれない。
でも,ぜひ皆さんの手で守ってあげてほしい。
愛を分けてあげてほしい。
子どもは受けた愛の数が多ければ多いほど,非行から遠ざかり,心の傷は浅くなる。
愛は,私たち大人が子どもに与えることのできる,最も簡単で,無尽蔵にあふれる,お金のかからないものだ。
せめてひと言だけでいい。
身近にいる子どもに,愛のある優しい言葉をかけてあげてほしい。
そしてほめてあげてほしい。

どうしたの? 大丈夫?
大変だったね。よくやったね。

昨日までのことはいいんだよ。
これからのことを考えよう。

またあした一緒に悩もう。
またあしたたくさん話そう。
またあしたたくさん笑おう。

おやすみ。またあした。

八分方,水の入ったポリタンク

2008年7月9日(水)
7月8日付の河北新報朝刊『声の交差点』に「地震で断水中,手伝いに感謝」という題で,栗原市の82歳の農家の方の投書が掲載されました。
できるだけたくさんの水を運んであげるのも優しい心。
「あとから82歳のおじいちゃんが風呂に移したり,トイレでつかったりするだろう。満タンでは腰にこたえるだろう」
運ぶ人の身になって八分方の水を入れてくれたその心遣い。
相手のことを考えて,と言っても,なかなかできることではありません。

地震で断水中,手伝いに感謝

岩手・宮城内陸地震による被害がわが家にも及びました。壁やふすまが傷んでしまいました。 散乱する家具類を整理しながら,水源地が被災して断水した半月間の生活はこたえました。
水のありがたみをつくづく思い知らされました。その間に,ボランティアの方々に給水車から水を運んでいただき,大変助かりました。

老体にとって24リットルの容器はこたえます。それだけに,一人で2つの容器を軽々と運んでくださった方々の笑顔が忘れられません。
ある日,給水車から3回,水を運んでいただいた方から,強烈な感動をプレゼントされました。その方はまず2回,満タンにした容器2つを運んでくれました。
そして3回目は,満タンではなく八分方入った容器を2つ。
わたしに向かって,その方は「満タンでは重たいでしょう」と何げない言葉を残して帰って行かれました。お礼を言いながら,優しいあの方の一言に,時間がたつほどに感激しております。

お名前も聞きかねました。遅ればせながら,あの八分方のポリタンクのお礼を申し述べさせていただきます。
ありがとうございました。ボランティアさま。

しあわせ運べるように

2008年1月20日(日)
おとといNHKで放送された「プレミアム10」で「絆・被災地に生まれたこころの歌」をみました。
13年前に起きた阪神・淡路大震災をはじめ,相次いだ大震災の地から生まれ,傷ついた被災者の心を癒し,を励まし, 復興を支えたたくさんの歌があったことを知り,涙が止まりませんでした。
神戸では「しあわせ運べるように」「満月の夕」,新潟の被災者を勇気づけた「ジュピター」(平原綾香), インドネシアで広く歌われている「心の友」(五輪真弓)。
音楽の力をあらためて感じました。

以前紹介した「いてくれるだけで嬉しいから」も,阪神・淡路大震災を力を合わせて乗り越えた家族の物語です。
家族や友だち,地域の人々との絆を,あらためて大切にしたいと思います。

しあわせ運べるように

地震にも負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう

傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
支え合う心と明日への 希望を胸に

響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように

地震にも負けない 強い絆をつくり
亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に生きてゆこう

傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み

響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように
響きわたれぼくたちの歌 生まれ変わる神戸のまちに
届けたいわたしたちの歌 しあわせ運べるように

子どもたちは初めて生産的な生活をした

2008年1月19日(日)
『教育ジャーナル2005年5月号』に,2004年10月23日に発生した新潟県中越地震で被災した子どもたちが, どう震災に立ち向かい成長していったのかを紹介した 「大人とのかかわりが子どもたちを変えた」という文章が掲載されています。
「子どもたちは初めて生産的な生活をした」という一文が強く心に残り,大切にしまっていました。
私は,子どもたちは「消費活動の中でなく,生産活動の中でこそ,生きる力を身につけていく」と常々考えいます。
そのような真の教育が避難生活の中で実現されたということの中に,複雑な思いがしますが,しっかり受けとめていきたいと思っています。

学校中の電気をつけよう

「明かりが地域に活力を与える」この言葉を物理的に実践した学校がある。東小千谷小学校だ。
震災3日後。避難所となっていた同校に発電機を積んだ電力会社の車がやってきた。
「学校中の電気をつけよう」
俵山辿夫校長の言葉を受けた教職員全員が学校中を走り回り電気をつけた。電力が復旧していない真っ暗な町に明かりが灯った。先の見えない生活に不安を抱えていた住民たちの希望の灯になればと考えた。
「普段はいかに節電するか工夫しているわけです。校長の言葉を聞いたときは,正直,これは電気代がかかるなと思いましたよ。でも,実際電気がつくと,被災者の方々の顔がほころんだんです。暗闇のなかの明かりは,どんな励ましの言葉より被災した住民を勇気づけたのではないかと思います」と太田敏教頭は言う。
普段から東小千谷小学校は地域と密着してきた。学校だよりを保護者だけでなくだれでも持ち帰れるように,駅,スーパー,公民館,地域にある温泉施設,医院にも置いて学校の情報を地域住民にも知ってもらう努力をしてきた。昨年2学期の始業式は,小千谷駅で行った。
「JRの列車は時刻に正確。列車のように一斉にスタートしよう」
そんな俵山校長のアイデアだった。
震災後,2学期の終業式では,全校児童が商店街に出て「風邪ひかないでください」「地震のときは助けてくれてありがとうございます」など,思い思いに書いた1800枚のメッセージカードを住民に配った。
俵山校長は地域と学校のつながりについてこう語る。
「地震を経験してみて,学校が地域の中心だったと実感しました。地震直後,すぐに避難民はグラウンドや体育館にやって来ました。安否の確認や避難生活の苦情は職員室にくる。避難所の打ち合わせは職員玄関で……。地域なくして学校はあり得ない。学校なくして地域はあり得ない。そして,小学校に通う子どもも地域とは無関係ではない。『子どもは小さな市民』である。その思いを強く持ちました」

町や物は破壊されたが,子どもの心に根付いたものがある。それを大切にしたい

「地域」を身をもって感じたのは俵山校長だけではない。427人の東小千谷小学校の児童も同様に肌で「地域」を感じ,自分のなかに消化していった。太田教頭はこう振り返る。
「非常事態のさなか,子どもたちは学校を離れ,地域で暮らしました。いくら子どもだとはいえ,自分だけぼんやりしているわけにはいかないのです。子どもたちも自主的に動き始めたんです。ある町内では断水のため,数十年ぶりに古井戸の水をくみ出して使用しました。大人がくみ上げた水を子どもたちが運んでいました。自分たちも何かしなければいけないと感じたんです」
児童たちは実際に体を動かした。いままでに経験したこともないような避難生活を送った。まさに体を通して,非常事態を認識したに違いない。
「子どもたちは変わりました。感謝の気持ちを持つことや集団でのマナーなど,これまで心の教育として学校教育のなかで繰りしやってもあまり手ごたえのなかったものが,地震から学校再開までの2週間で芽生えたんです」
と俵山校長は言う。
教務主任の上村勤教諭は,児童たちの変化の原因をこう考えている。
「避難生活のなかで,子どもたち同士の付き合いが寸断されました。子どもたちは親や地域の大人,ボランティアの方々と過ごさなければならなくなった。電気がないので,いままでのような娯楽はない。大人の言うことを聞かなければ生きていけない。そんな状況が子どもたちを変えたのではないでしょうか」
俵山校長は,次の2点が児童たちに変化を促した最も大きな要素だと力説する。それは
「不安と恐怖のなかで生き抜こうと,子どもの目の前で言葉を発し続ける真剣な大人の姿」と「年齢,能力に関係なく,目の前で繰り広げられる助け合いの光景」である。 「子どもたちが家族と接すると言えば,車に乗ってショッピングセンターへ買い物に行く。または休日のレジャーやレクリエーション。その程度だった。つまり,消費生活の繰り返しのなかで生きてきたんです。
今回,子どもたちは初めて生産的な生活をしたのではないでしょうか。火を起こす,水をくむ,食物を確保する。それを皆でつくる…。水道,ガス,電気がない状況で暮らすことの難しさを体験しました。必死になる大人の姿をずっと見ていたんです」
仕事をする親の姿すら知らない子どもたちが,真剣な大人の姿を目の当たりにする。それは子どもたちに憧れや尊敬の念を抱かせたのではないだろうか。
「確かに子どもたちに変化はありました。あの2週間は無駄ではなかった。だが,それを根付かせることができるかどうかはわれわれ大人にかかっています。町や物は破壊されましたが,子どもの心に根付いたものがある。それを守り,育むための学校教育,家庭教育がこれから始まる。子どもたち一人一人に灯った明かりを消さないようにしなければならない。その教育は,雪解けと同時に始まるんです」

町工場こそ日本の宝

2008年1月12日(月)
岡野工業株式会社社長の岡野雅行氏と橋本久義氏の共著で,『町工場こそ日本の宝』(PHP)という本があります。
ある会合で「ものづくりの楽しみ」というテーマで話をする機会があり,そのために再度読み直してみました。
ものみなコンピュータ時代と言われ,海外への技術移転が進む中,小さな町工場の職人が積み重ねてきた技や勘の価値を見直したいものです。

『町工場こそ日本の宝』(PHP研究所)岡野雅行×橋本久義

いま強気な金型屋さんが東向島あたりに残っているんですよ。先生,俺はそれが嬉しいんだ。
それこそ雑貨屋,雑貨の金型をやっているところがいちばん強い。別の言葉でいえばローテク。 おもちゃとか折りたたみの傘,ライターとかね。要するに,ハイテクじゃないやつ。
マシニングセンターでビッポッパって入力してできない金型をつくっているところが今忙しいんですよ。 ピッポッパ,じゃなくて,ヤスリをかけて「もう少しこうだ」「気持ちこうだ」とやっている金型屋さんね。

【結局はローテクなんだよ】

そう。だからね,ハイテクばかりじゃないの。
だから,雑貨ができないと。こういう仕事では基本的には雑貨をつくれないとだめなんです。
でも世間じゃあ,雑貨というとバカにするでしょう。ところが,ものづくりの現場では,ハイテク製品は雑貨から生まれてくるんだから。
ローテクの雑貨をやってる人は,そのノウハウをすぐハイテク製品に転用できる。
けれど,ハイテクばかりをやってる人は雑貨ができないんですよ。折りたたみの傘の骨やライター,万年筆なんかを,ハイテクの会社につくってくれって頼んでもできない。
ピッポッパでやれば,大学出たやつだって,一応格好だけはできるんですよ。
だけど,そこから一歩進んで,自分の創造性を生かしてものをつくる,という段階になったら即アウト。
結局は,人から与えられたものばかりをつくることになる。

【ローテクがきちんとできなければハイテクができない理由】

岡野さんは,結局は雑貨ができないとダメなんだという話をされている。
ハイテクと騒いだって,ローテクがきちんとしていなければ,そういうのがつくれないと何もできないんだとおっしゃっている。
塗装,メッキ,鋳物,鍛造,プレス,金型,板金,熱処理,機械加工など,そういうことをやっている人がいなかったら,先端技術製品はできないのである。
しかも,そういう加工のレベルというものは,とくに塗装やメッキや熱処理などは,量の出るものをやっていないと維持できない。

【図面なしで「アイディア」が湧き上がる】

図面に描かれたものは,そのなかのある部分が間違ってると思ったって,そのとおりやらなきゃいけないってことでしょう。
ところが図面がなければ,途中で「あっ,俺の設計がちょっと間違ってるな」って,アドリブでどんどん変えて,進化していけるわけ。
そうすると,あとで必ずいいものができるんですよ。
図面がないと,黙っていても機械がレベルアップしちゃんだよね。

雪と欲ぁ,積もるほど道忘れるす

2007年1月8日(月)
昨年の6月に出版された石川純子著 『さつよ媼 おらの一生 貧乏と辛抱』。
出版を知らせる記事を読んでから,故郷若柳のすぐ近くの話であることもあり,ずっと気になっていました。
昨夜近くの書店で購入し,一気に読んでしまいました。
九つで子守りに出されてからの長く苦しかった半生を語るさつよ媼の語り口がなんとも実直で, 温かく,ぐんぐん内容に引き込まれていきました。
「朝寝は貧乏の先がけ,朝起きは三文の徳」「人を助けてわが身助かる」「入り日明るい」
「よき日は明けぬ,さわやかに。朝日はいでぬ,花やかに。いざ,起出でて,勇ましく 我もはげまん,今日の業」
さつよ媼を支えたことばの数々。
「おらの体,金仏身体(かなぶつかばね)」「わが家は貧乏者(びんぼたがり)の一等賞」
自分の苦労を明るく笑い飛ばすさつよ媼。
守りっ子の唄,どんづき唄,…
苦しい労働に力を与えた仕事唄の数々。
故郷のなまりだらけのさつよ媼の語り口から,さつよ媼の気持ちが直に伝わってきました。

「おらは生まれたまんま-まえがきにかえて」から,一部紹介します。

おらは貧乏したから
ひもじい人の気持ちがわかるよ
かなしい人の気持ちもわかるよ
だからどんな人にも親切にしたよ
おがっつぁん,教えてくれたもの
「人を助けてわが身助けろ」って

おらは人と比べないもの
おらは欲濃くしないもの
うらやましがったり,うらんだりして
心荒らしていられないもの
昔の人たち,教えてくれたよ
「雪と欲ぁ,積もるほど道忘れる」って

そうやって百歳ちかくまで生きてきたら
みんな,おらのこと
「さつよさんはいいなあ,入り日明るくて」って
おれ,もとは地獄,いまは殿様だよ
世の中平らだね
人は生きているんでなくて生かされてるんだって

おらは生まれたまんま
嘘の語りようも知らないから
おらの一生語るたって,ありのまんまだよ

才能なんていうのは,その対象に関わる気持ちの前では,小さな小さなことです

2006年12月9日(土)
ここ1週間,煎本孝著『カナダインディアンの世界から』(福音館書店/2002年)や 星野直子著『星野道夫と見た風景』(新潮社/2005年),国松俊英著『星野道夫物語-アラスカの呼び声』(ポプラ社/2003年) など,アラスカや星野道夫にまつわる本を,通勤の地下鉄やバスの車内で読んでいます。
星野道夫の世界。星野道夫の文体。星野道夫の人間性。
アラスカ。いのち。自然。人間。心。
まっすぐさ。厳しさ。やさしさ。
彼の生き様の前では,「才能」とか「学力」「知識」などという言葉がかすんで見えます。

『星野道夫物語-アラスカの呼び声』に妻の星野直子さんが寄せた文章の一部を紹介します。

私が夫と初めて出会ったのは1991年の暮れも押し詰まった頃でした。
夫はアラスカの自然や撮影のエピソードなどを話してくれました。初めて聞くアラスカの話はとても新鮮で,どんどん引き込まれていきました。話をする夫の目は澄み,素朴で温かな人という印象を受けました。
ある時,「夢」について聞かれたことがありました。当時,私は会社勤め二年目でしたが,少し前から別に心魅かれはじめていることがありました。
本屋で偶然手にとったフラワーアレンジメントの写真集を見てから,花々の美しさに心動かされ,見る毎に,「フラワーアレンジメントを勉強してみたい。そして花に関する仕事ができたらどんなに素晴らしいだろう」と,気持ちが募っていたところでした。
しかし,はたして自分にはデザインをしていく素質があるのか,自信が持てず,一歩を踏み出せないでいました。夫は話を最後まで黙って聞き,「本当に好きなことだったら絶対に大丈夫」と言ってくれました。
そのひと言に勇気をもらい,勤めていた会社を辞め,フラワーデザインの学校に通うことになりました。

後にもらった手紙には,こんなことが書かれていました。

自分の一生の中で何をやりたいのか。そのことを見つけられるということはとても幸せなことだと思います。
あとはその気持ちを育ててゆくことが大切です。
育ててゆくということは勉強してゆくことで,本を読んだり,人に会ったり……その結果,自分の好きなことをもっともっと好きになってゆくことだと思います。

才能なんていうのは,その対象に関わる気持ちの前では,小さな小さなことです。
長い時間の中ではさらにそうです。
自信をもって進んでください。

今再び手紙を読み返してみると,アラスカへの思いを深めながら自然や動物,人々の暮らしをテーマに取り組んできた夫の姿勢が伝わってきます。

わが艱難(かんなん)を人の知らざること喜ぶべし

2004年6月21日(月)
河北新報の朝刊に「元気東北/小さな町のまちづくり人探訪」というコラムがある。 前福島県三春町長の伊藤寛さんが担当しているのだが,毎週興味深く拝読している。 というのは夏休み中に,英語の研修会で三春町の岩江中学校を訪れる機会が何度かあり,独創的な校舎のつくりが 強く印象に残っていたからである。
2年前の夏に日本評論社から出版されている『やればできる学校革命』を読み,一層その感を強くした。 三春町は面白そうだという思いが,私をこのコラムに惹きつけたわけである。
2004年5月29日付けのコラムで,石川理紀之助(秋田出身の農村指導者)のことばが紹介されていたのだが,人間として,教師として, 大切にしていきたい価値観が凝縮されており,強く心に残った。

我捨ててこそリーダー

民間非営利団体(NPO)は流行語。住民参加の一つの形として期待が寄せられている。それに異存はないが,実際に運営することは難しい。 20年余にわたってNPO類似団体の運営責任者として中心的役割を果たし,高齢のため,このほど現役を退いた人に, 立派に運営する秘けつをご教示願った。

郷土史研究を深め,歴史に根差したまちづくりを進めるための「歴史民俗資料館」。 住民による活発な活動を行う目的で設立当初300人余の会員によって結成された「歴民友の会」は,20年経過した現在でも, 館運営をしっかり支えている。
平成元年の「ふるさと創生一億円」事業として着手した「桜の里づくり」。
その実施団体として約400人の会員で結成された「三春さくらの会」。現在でも活発に活動を続けている。
二つの住民組織を立派に主宰してきた力量は並みではない。
「秘けつというほどのものではないが」といって,彼は古めかしい本を取り出してきた。
第一,意の如くならざるは己の行いの足りぬなり。
第二,人の為(ため)にする損は損にあらず,わが為にする利は利にあらず。
第三,功は衆に譲るべし。
第四,わが艱難(かんなん)を人の知らざること喜ぶべし。
第五,寝ていて人を起こすことなかれ。
(石川理紀之助)
明治期に農村更生運動を指導した老農の言葉だそうだ。
「時代遅れと笑う人もいるだろうが,現在でも,自己顕示欲を抑えるのは,リーダーの基本的な心構えだ」と彼は語る。
小さい「おれが」にこだわる傾向がみられる現状への戒めが言外に感じられる。
そこで,これからのNPOリーダーに期待したい心構えを語ってもらった。
「3人寄れば文殊の知恵」式に,何事もじっくり相談。
しかし,「船頭多くして船山に登る」ことにならないように,リーダーは不動の軸足。
みんなが参加意識を持てるように,役割分担を上手に調整。
しっかりした事務局づくりもリーダーの責任。
達成感を共有した明るい笑顔が明日への活力。
組織運営のコツを以上のように要約しながら,「反省させられることばかりだ」と彼は語る。 しかし,私たちにとっては,彼が身をもって示してくれたことに学ぶべきことは極めて多い。

1秒でも多く選手のそばにいること

2004年2月16日(月)
昨年11月29日,塩竈市小中学校PTA連合会の講演会が壱番館で行われました。
今は古川学園高等学校の教頭先生として,忙しい毎日を過ごしておられる国分秀男先生をお呼びしての講演会でした。
古商女子バレー部を率いて初の全国優勝をなしとげた宮崎国体にまつわるエピソードなど,心に残る数々の言葉や出来事がありましたが,その中でも強く心に響いているのは,題として取り挙げたこの言葉です。
私はとっさに「選手」を「生徒」と置き換えて考えていました。
朝の会も,給食時間も,休み時間も,掃除も,帰りの会も,とにかく「1秒でも多く生徒のそばにいること」
教師であるかぎり,処理しなければならないことは山ほどあることは分かっています。しかし,「1秒でも多く生徒のそばにいること」を常に肝に銘じたいものだと,思っています。
山田先生(山田重雄氏-世界の三冠監督)にはたくさんのことを教えていただきました。
その一つは次の質問に対する先生の答えでした。
「先生,強い女子チームを作るために最も大切なものを一つだけ挙げよといったら,それは何ですか」
先生曰く
「一秒でも多く選手のそばにいることだ」
常にそばにいることによって,選手たちの体調やチームの調子などを始め,いろんなことが分かるし,何かの場合すぐに対応できるからだ,というのがその理由でした。
『夢を見て 夢を追いかけ 夢を食う』 国分秀男著(日本文化出版)

開校式のお祝いのことば

2003年10月18日(土)
花巻・鉛温泉から遠野方面に向かう途中で「高村山荘」の標識を見かけたことで生まれた,高村光太郎との出会い。
高村光太郎に縁のお二人の女性からじかにお話をお聞きし,山荘を訪れ,山口の自然に触れて,初めて知った気高い高村光太郎の生き様。
深くこころに迫るものがありました。
展示物を丹念に見学しながら,ふと目にした「お祝いのことば」の自筆原稿。
生活者としてのきわめて人間的な視点から,山口小学校の誕生に際して部落や開拓の人々や子どもたちに贈った温かいことば。
何度も何度も,声に出して読み上げました。そして,付箋メモに書き写させていただきました。
昭和23年12月3日,太田小学校山口分教場が昇格して山口小学校となり,3教室が新築され,開校式と落成式が併せて挙行されました。門札は先生(高村光太郎)に書いていただき,玄関に掲げました。
その日,学校がはじまって以来,未だかつてない200人にも及ぶ来賓がおいでになりました。先生もお祝いに列席されました。
このとき,来賓祝辞として,先生は次のような「お祝いのことば」をお読みになりました。

お祝いのことば
あのかわいらしい分教場が急に育って
たうたう山口にも小学校ができました。
教室二つの分教場が大講堂にかはり,
別に新しい教室が三つもでき上がりました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて,
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と,
もっと大きい熱意といふものを持ち寄って
この夢の実現を果たしました。
陽春4月の雪解ごろから,
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙しいなかを,
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
いまブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人,
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん,
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知ってゐる人のやうです。
あの製板の機械のうなり,
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてくる槌の音
まるできのふのやうになつかしく耳に残ってゐます。
山口小学校は名実ともに立派にできあがりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知ってゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の寒村にたぎってゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
おめでたうございます。
一歩前進,
いよいよ山口小学校ができました。
『山口と高村光太郎先生』浅沼雅規著/(財)高村記念会発行(p34-p36)

寝小便に学んだ寛容

2002年10月7日の河北新報朝刊のコラム「あの日あの時」に,評論家の佐高信(さたかまこと)さんが書かれた「寝小便に学んだ寛容」という一文を見つけました。
タイトルがなんとなく懐かしい気がして,読んでみました。
「誰にも人に言えない悩みや失敗があるんだよ,それを受容しながらけなげに生きているんだよ」という,温かいメッセージが込められていました。
教育界では「絶対評価」という怪物が現場に重苦しい空気を運んできていますが,「子どもたちを同じものさしで測れると思ってはいけないよ,一人一人みな違うんだよ」と言っているように感じました。

寝小便に学んだ寛容

寝小便したことある? 私はね,中学生になっても寝小便が直らなかった。

この寝小便体験こそが,私の人間としての原点だね。

中学1年のとき,山形市で開かれたそろばんの県大会に出場することになった。酒田からの出場者は全員一緒に山形市内の旅館に泊まる予定だったが,私は両親の配慮で,山形大の女子寮に入寮していた姉の部屋に特別に泊めてもらった。

そのとき姉はね,徹夜して2,3時間おきに私を起こして便所に連れて行ってくれたんだ。おかげで熟睡できた私は,3位入賞を果たした。

県大会には翌年も出場。前年,1年生で3位だから,今度は優勝候補の大本命だよ。でも,姉は大学を卒業し,山形市内に頼れる身内はいない。やむを得ず皆と旅館に泊まったが,寝小便してしまったら旅館の窓から飛び降りて死ぬしかないと本気で考えた。結局,一睡もできず,大会も不出来に終わった。

寝小便を笑う人には,寝小便をする人の悩みや苦しみは決して分からないよね。殴った人は殴られた人の痛みを分からないということ。私が,エリートを気取る人に反発を覚えるのは,こんな経験からだと思う。

人は誰でも他人には話せない心の傷や闇をそっと抱きしめて生きているものなんだ。

佐高信さん-「寝小便をしても,おふくろに怒られたことは一度もなかった。そこから人の過ちを許すことを知ったね」

<さたか・まこと> 酒田市生まれ。慶大法学部卒業後,郷里の高校教師,経済誌の編集長を経て1982年から評論活動に入る。週刊「金曜日」編集委員。著書に「佐高信の政経外科」など多数。

動物は学校に行くか?

5月26日の三陸南地震に引き続き,台風が日本列島に上陸した5月最後の週末。
灰谷健次郎の『はるかニライ・カナイ』を読んでいて,出会った文章。
「教育とは何か」を問い直すうえで,ひとつの資料になると思い,キーボードに向かった次第。

しかし,沖縄・慶良間諸島を舞台に展開するこの物語全体を読むことで,「教育」よりもっと本質的なこと,つまり「人間が生きることの意味」をあらためて考えなおすことのほうが大切なのでは,と考えつつ……。

「教育って,なんだろう?なんだと思う?」
むずかしい質問をしてきた。
これまでもそうだが,高野先生は相手が三年生の子だからといって,「子ども用」のやさしいことばや,やさしい言い方で問いかけるということは,まずない。
「人間以外の動物で,教育というものを考えてみよう」
高野先生はいった。
「動物は学校に行くか?」
「行かない」
子どもたちは,いっせいに答えた。笑いながら答えた子もいる。
「じゃ,動物は教育を受けていないのかな?」
首を振る子,考える子,さまざまだ。
「アキラ。きみは,どう思う?」
「動物も教育を受けていると思います」
「どういうふうに?」
「前,テレビで見たんだけど,シマウマの子は生まれると,すぐ立つ練習みたいなことをしていました」
「そのシマウマの子,一頭で?」
アキラは首を振る。
「母さんシマウマが,なめたり,首で支えたり,そうかと思うと,やっぱり首で,やさしく突き倒したりして,練習を助けているような,教えているような,そんな感じでした」
「母さんシマウマが,先生でもあるんだ」
アキラはうなずいた。
大峰マコトが手をあげた。
「野生の動物は,親が子に狩りを教えるでしょう?」
「それだね。これはもう,りっぱな教育だ。じゃ,教育ってなんだ?」
マコトは考えた。
「一人で生きていくための……」
考え考え,マコトは答える。
「……いろいろなことを学んで……,身につけるっていうか……,そういうものが教育」
「うん,それでいいだろう」
と高野先生はいった。
「一人で生きていくことを,自立っていう。その自立を助けるのが教育の仕事だ。人間も他の動物も,その元のところはいっしょだね。動物は生まれたときから教育を受けている。生きるために」
みな,うなずく。
「危険から身を守るために。えさをとるために。人間は,どうだろう」
みな,考えた。
「人間はおくれている?」
吉本サキエが,問いかけるようにいった。
「人間は,大きな文明や文化を築いていくのだから,そこだけを見て,おくれているとはいえないだろうけど,危険から身を守る,食事をとる,という部分を,大事な教育だと考えていない人が多いとしたら,動物に笑われるかもしれないな」

丸本先生はことばを継いでいった。
「この島のおばあさんが,ほんとうにいいことをいったよ。人が勉強するのは,えらい人になるためじゃありませんよね。人が勉強するのはいい人になるためですよ,って。わたしはうーんと唸ってしまった」

ヘマタ

『金田一京助とアイヌ語」(大友幸男著 2001年)を読んでいて,英語の教員なりたてのころに耳にした有名な逸話に出くわした。
「何でも知りたい」という好奇心を持つことが,コミュニケーションの第一歩。立派な文章でなくてもよい,単語一つのやりとりでも,互いの壁が取り払われ,心が通い始める。
アイヌ語の研究に没頭していた金田一京助の「ヘマタ」の逸話は,言語学習の原点を見事に指し示している。

「心の小径」の旅-金田一京助

京助は樺太庁の巡視船に便乗してオチョポッカの浜に上陸し,酋長ピシタクの「冬の家」を借りて,自炊しながら,村びとたちと接しようとしたが,北海道アイヌの言葉で何を聞いても答える人がなく,話しかけようするのさえ,横を向いてさけようとする風情だった。

京助はこれを,北海道のアイヌ語では全く通じないためだけと考えたようである。しかし,ずっと後になって知るのだが,当時の東樺太で何かの事件があり,京助はそれを探索に来た役人の手先らしいというので,酋長たちから緘口令がしかれていたもののようである。

そのようなことはツユ知らぬ京助は,ひたすら言葉が通じないため「唖のうえに盲になったも同然」(ママ)と途方に暮れたといっている。ただし,子供たちには緘口令がしかれたはずもなく,はじめはおそるおそるだったが,珍しそうに京助のまわりに寄るようになった。せめて子供たちからでもアイヌ語の知識を得ようと考えた京助は,ノートをめくって,魚や鳥の絵を書いてみて,何と呼ぶかと手ぶりで聞くのだが,なかなか要領を得ない。そこで演出したのが,京助の名を全国の中学生に有名にした「心の小径」の中の名場面になる。

心の小径

……ただ,私は,「なに?」という一語がほしくなった。それさえわかれば,心のままに,物をさして,その名を聞くことができるのである。そこで,ふと思いついて,もう一枚紙をめくって,今度はめちゃくちゃな線をぐるぐる,ぐるぐる引きまわした。年かさの子が首をかしげた。そして,「ヘマタ!」と叫んだ。すると,他の子供もみな変な顔をして,口々に,「ヘマタ?」「ヘマタ?」「ヘマタ?」

うん,北海道で「なに」ということを,「ヘマンダ」と言う。これだ,と思ったら,まず試みようと,身のまわりを見まわして,足もとの小石を拾って,私からあべこべに「ヘマタ?」と叫んでやった。驚くべし,むらがる子供らが私の手もとへくるくるした目を向けて,口々に「スマ!」「スマ!」と叫ぶではないか。北海道で石のことを「シュマ」という。してみると,「スマ」は石のことで,そうして,「ヘマタ」はやっぱり「なに?」ということに違いなさそうだ。

そこで勇気を得て,もう一つ足もとの草をむしり取って,「ヘマタ?」と高くささげると,子供らは「ムン!」「ムン!」「ムン!」と,ぴょんぴょんととびながら答える。私はうれしさに,子供らといっしょにぴょんぴょんとんで笑った。

おかしかったのは,私が自分の五厘ぐらいしかない7,8本のあごひげをつまんで見せて,「ヘマタ?」と尋ねたときである。声に応じて,子供らは「ノホキリ!」「ノホキリ!」と答えてくれたので,「あごひげ」と記入した。なんぞ知らん,それは下あごだった。ひげづらになれているアイヌの子供たちの目には,私のつまんだひげなどは,ひげの数には入らないので,私の指はあごをつまんでいると思ったのである。

私はこうして,たちまちのうちに74個の単語を採集して,元気づいた。おりから,河原に集まって鱒を捕えている大勢の大人たちの所へおりて行って,覚えたばかりのほやほやの単語を使ってみせた。河原の石を指さしては,「スマ」と叫び,青草を指さしては,「ムン」,鱒を見ては,「ヘモイ」,鱒の頭を指さしては,「ヘモイーサパ」,鱒の目を指さしては,「ヘモイーシシ」,鱒の口を指さしては,「ヘモイーチャラ!」

これまで,むずかしい顔ばかりしていたひげづらが,もじゃもじゃのひげの間から白い歯を現した。これまで,そむけそむけしていた婦女子の顔にも,まっさおな入れ墨の中から白い歯が見えた。明らかにみな笑ったのである。中には,むこうから,網を持っている手を振って見せて「ヤー(網)」と言ったり,砂地を指さして「オタ(砂)」と言ったりした者もある。急いで手帳に書きつけながら,その発音をまねすると,不思議そうに手帳を見に寄ってくる者もあった。婦女子の群れでは,「いつ覚えたろう。」とか,「よく覚えたものだ。」とか言うらしい感嘆の声をあげた者もあった。

街路灯下の勉学

私が長年愛用しているシステム手帳に,10年前に目にとまった記事が,大切にしまってあります。
1992.03.24の朝日新聞「特派員メモ」というコラムに掲載された『街路灯下の勉学-バマコ』という記事です。
ふとした折に記事をながめては,思いを新たにしています。

こんなに遅くに何をしているのだろうと,いぶかしく思った。
夜も更けたマリの首都。ホテル8階の廊下の窓から,前の道路を人々が行ったり来たりしているのが見える。何かを読んでいるのだろうか。
外に出てみて,分かった。幹線道路の照明で,学生たちが必死に勉強をしているのだ。涼んでいると見えた周囲に座り込んでいる若者たちも,ノートや教科書を広げている。
貧しい国が多いアフリカでも,マリの貧しさは特別だ。この町に,首都らしい華やかさはない。電気はまだ一部の人々のぜいたく品だ。こうこうと照らされた道路が,格好の図書館代わりになっている。
高校生のノートを見せてもらった。一冊を物理,地理,仏文法など全教科に使っている。
「技術者になりたい。電気を起こしたり,車を作ったり」
マリの就学率は3割。字が読めない人も8割もいる。彼らはこの国のエリートなのだろう。だが,その姿に,例えば東京の駅で夜遅く,塾のテキストに目を通す日本のエリート予備軍にないある種の感動をおぼえた。
「頑張れよ」と,自室に戻った。読みかけのペーパーバック小説を閉じ,アフリカ文化の学術書を読むことにした。少し,厳粛な気持ちになっていた。
(五十嵐浩司)

大切にしたい「手辛抱」の心

2003.02.09河北新報朝刊の「声の交差点」に掲載された83才の生花商の方からの投稿です。
「手を動かしていけば,必ず片付く」という言葉は,「千里の道も一歩から」という言い古された言葉より,もっと実感がこもっているように思います。
田植えや稲刈りも手作業でやっていた頃は,「今日ははかいった」なんて言ったものです。結で隣近所の父ちゃんたちや母ちゃんたちと話し語りしながらの作業は,気の遠くなる作業を,楽しく心地よい仕事に変えてくれ,いつの間にか「はか」がいくのでした。
仕事はすべて手仕事が基本,このことを忘れないようにしたいものです。

これまで生きてきて,心に残る言葉はたくさんある。その中でも私に生き方を教えてくれたのが「目臆病,手辛抱」という言葉だ。
私の若いころ,農作業の折に年寄りが使っていた言葉で,「見た目は大変だと思った仕事も,手を動かしていけば片付く。手は辛抱して働く働き者なのである」という意味だ。
これを聞いて以来,私は面倒な仕事に取り掛かる前に,決まってこの言葉を心に思い浮かべる。そうすると,それほど大変だとは思わなくなる。
そして仕事をして得た達成感は,次の仕事に対する意欲につながる。本当にいい言葉を教えてもらったと感謝している。この言葉を自分だけが知っているのはもったいないと思い,これまで何人かの人に話して共感されている。
私は仕事が大好きだ。こんな人間になれたのも,この言葉があってこそである。終生,この言葉を大切にしたいと思っている。