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教師の役割を考える

「基礎・基本を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考 える力などの『生きる力』の育成」が打ち出された教育課程が全面実施された平成14年度は,「どのような授業づくりをしていくか」よりも,「どう評価していくのか。絶対評価はどのようにすればいいのか」,評価に明け,評価で一年が暮れた感じを受けました。
しかし,「これでいいのか」という思いが,常にありました。「評価者」である前に,子どもと共に学び,子どもと共に悲しみや喜びを分かち合う「教育者」でありたい-その思いは教師たる者,誰にもあると思います。

大村はま先生-先生の名前は何度か耳にしていましたが,英語教師の私にとっては,遠い存在でした。
しかし,ある日立ち寄った古書店で手にした一冊の本。

『大村はま-教室に魅力を』(国土社)
この本を一気に読み通してから,大村はま先生は,私にとって急に身近な存在となりました。
特に「仏さまの指」の話は,教育者としての心を示してくださっているようで,心の中にまっすぐに入ってきました。

寄り添い,能力を見いだす,伸ばす-教師の役割

仏様の指

仏様がある時,道端に立っていらっしゃると,一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。
車は,そのぬかるみにはまってしまって,男は懸命に引くけれども,車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても,どうしても車は抜けない。
その時,仏様は,しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが,ちょっと指でその車におふれになった。
その瞬間,車はすっとぬかるみから抜けて,からからと男は引いていってしまった。

そして,その本の中で大村はま先生の恩師である奥田正造先生が「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して,ついに引き得たという自信と喜びとで,その車を引いていったのだ。」と話されています。
大村はま著「教えるということ」(共文社)より

大村はま先生は「仏様の指のような存在の教師でありたい。子どもたちが生きていく力,生きぬく力をつけ,自信に満ちて,勇ましく次の時代を背負って行ってくれたら,教師の仕事の成果はそこにある。」と書かれています。

この文章を読まれて,どのように感じられたでしょうか。
「仏様の指」が男の車にそっと触れた瞬間,「仏様の指」が男に与えたものは「生きる力」だったのではないでしょうか。
大村先生が文中で「子どもたちが生きていく力,生きぬく力をつけ,自信に満ちて,勇ましく次の時代を背負っていく力」と表現している力こそ,学習指導要領改訂のキーワードとなった「生きる力」だと思います。

子どもたちは伸びたいと切望している

また,大村はま先生は,「どの子も伸びたい」と強く願っていると考えています。
そして,そのように子どもをとらえる自らの原点を,終戦直後の混乱した教室に求めています。

教師の禁句「静かにしなさい!」

こんなせりふがあります。子どもがよく聞いていないと,「よく聞いていなさい!」というのが。これもご法度にしたらいいのではないかと思います,専門職ならば。これもやはり私がこれからお話をする経験があるからだと思います。私はそのことがあるまでは「静かにしなさい」とか「聞いていなさい」ぐらいのことは言いました。

私は先ほど言いましたように,昭和22年,中学が創設されました時に,最初の生みの苦しみを味わった中の一人です。ことに私は,先ほど申しましたように,戦争責任にいたたまれないような気持ちで飛びこんだ中学校ですから,どんな苦しみがあってもかまわないと思っていました。ですから学校選びなどということはしませんでした。また,第一に私は東京女高師の卒業生ではなくて,東京女子大という,いちばん世間に疎い学校の卒業生ですから,どこ地域にどういう有名校があって,どこの学校へ行くと早く栄進できるなどという知識は,すこしもありませんでした。私の女子大の同級生には,教師になった人は一人もおりません。それで教師に知人というものもないわけです。私にはだいたいそういう世間の知恵がないのです。また,そのころの女性というのはだいたいそういうものでした。

私はいちばん最初に,来るようにと声をかけてくださった校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。
ご存じのとおり大戦災地でしたから,一面の焼野原で,朝,学校に行くにも,私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて,いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしかったのです。見渡す限りの焼野原,ところどころに,防空壕のあとがあります,まだ,そこに住んでいる壕もありましたから,足もとがパッとあいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。そこを通ってゆくと,焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校があります。その一部を借りて,私のつとめる深川第一中学校というのは出発しました。
あのころ,雨が降って傘をさして授業しているところや,大きな算盤がどうしたわけか焼け残っていて,その大きな算盤に腰掛けて,子どもが勉強しているところなどが新聞に出ました。みんな私の教室でした。床があるわけでなく,ガラス戸があるわけでなし,本があるわけでなし,ノートがあるわけでなし,紙はなし,鉛筆はなし,どうするつもりでしょう。そこへ赴任したわけです。
で,1年生は4クラスで,1クラス50人でしたが,「教室がないから2クラス百人いっしょにやってください」と,こういうわけです。その百人の子どもは中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。ウワンウワンと騒いでいて,どうしようもこうしようもありません。私はあんなに途方にくれたことはありませんでした。しばらくは教室の隅に立ちつくしていました。「静かに!」と言おうと何と言おうと,どうなるものでもありません。その時間,私はそばの子どもにだけいろいろな話をしながら,ワァワァ騒いでいる中を,少しずつ動いて何か少し教えたりして,なんとか授業のかっこうをつけていました。とても一斉授業なんてできませんから。

そこで,すっかり意気消沈した私は,みなさんもご存じの国語の大家,西尾実先生のお宅に伺って,実情を訴えました。
ところが,西尾先生は高笑いなさって,「なかなかいいかっこうじゃないか,経験20年というベテランが,教室で立ち往生なんて……」とおっしゃり,「そういう時にこそ人間というものはほんものになるんだから,病気になったり,死んじゃったら困るけれども……」ととりあってくださいません。
私はじつは,こんなふうでとても授業ができないと,先生にお話しすれば,高校へ戻るように心配してくださるのではないかと思っていたのです。そう願っていたのです。しかし先生はそんな雰囲気ではありません。私は何とごあいさつして帰ったか覚えがありません。たぶん何も申し上げず,ただ,お辞儀をして玄関を出たと思います。頼りにしていた先生にそういわれれば仕方がなく,そしてもともと捨身の覚悟で新制中学校に出てきたんだからと思い直しました。

私はその日,疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか,とにかくいろいろのものを引き出し,教材になるものをたくさんつくりました。約百ほどつくって,それに一つ一つ違った問題をつけて,ですから百とおりの教材ができたわけです。翌日それを持って教室へ出ました。そして,子どもを一人ずつつかまえては,「これはこうやるのよ,こっちはこんなふうにしてごらん」と,一人ずつわたしていったのです。

すると,これはまたどうでしょう,仕事をもらった子どもから,食いつくように勉強し始めたのです。私はほんとうに驚いてしまいました。そして,彼等はほんとうに「いかに伸びたかったか」ということ,「いかに何かを求めていたか」ということ,私はそれに打たれ,感動したのです。

そして子どもというものは,「与えられた教材が自分に合っていて,それをやることがわかれば,こんな姿になるんだな」ということがわかりました。それがない時には子どもは「犬ころ」みたいになることがわかりました。私は,みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり,窓わくの所へよりかかったり,壁の所へへばりついて書いたり,いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら,隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。

そして,人間の尊さ,求める心の尊さを思い,それを生かすことができないのは全く教師の力の不足にすぎないのだ,ということがよくわかりました。

大村はま著『新編 教えるということ』(ちくま学芸文庫)より

深川第一中学校での大村先生の実践は,学ぶことを拒絶し荒んだ心持ちでいるように見える子どもたちも,実は「学びたい」「分かるようになりたい」という強い願いを持っているのだ」とあらためて認識させてくれます。
教科書の教材に子どもを合わせるのではなく,子どものレディネスや興味・関心にあった教材や指導法を開発することが重要なのだと思います。

大村はま先生のそのような実践をもう一つ紹介します。「やさしい言葉で」という教科書の教材を子どもの生活としっかり結び付けながら,発展させています。
教材研究,かくあるべしというお手本です。
「やさしい言葉で」という教科書の一文を扱ったときには,鉛筆の広告を比較した。やさしくわかりやすい言葉で書いてある広告文と,難しい広告文ではどちらの商品を買いたいと思うか。「鉛筆なんて,当時は貴重品でしょ。どの子もその教科書の文章を本当によく理解しました」 身近に教材があることに気づいた生徒たちは,広告を見つけては運んでくるようになった。「どの子にもやること,できることがある。それで,学ぶことの素晴らしさや秘密を知ることができるんです」

教材(教師の熱意の結晶としての)の力により,子どもの可能性を引き出すこと,学ぶ喜びを味わわせていくことを,教師として常に追求していかなければならないと,あらためて教えられた気がしました。