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真の評価を考えるための資料集

そもそも教師は,何のために生徒を評価するのでしょうか。
私は次のように考えて,授業に臨み,生徒の姿を見取るように努力しています。

一人一人の生徒の人間として生きる姿に共感し,努力を称え,人間としての成長を支援するため,
唯一そのためにのみ,教師は評価を行うのだ。
いささか理想論に傾きすぎている感じられるかも知れませんが,常にこの原点に立ち返ることが大切だと思います。

人間の発達には,さまざまなタイプがあります。教師は,温かい目,長い目を大切にしたいもの。

吉岡たすくさんの『テレビ寺子屋』という本の次のような,「警句」が載っています。


早生の人 = 10で神童,15で才子,20過ぎたらただの人
旬 の 人 = 10でただの人,15でもただの人,20過ぎてもただの人
晩生の人 = 10でぼんやり,15でまあまあ,20過ぎたらただの人 私としては,「晩生の人」を「10でぼんやり,15でまあまあ,20過ぎたらすごい人」という句に替えたいと密かに思っています。

人間の発達には,さまざまなタイプがあります。
また,「教師との出会い」がその人の生き方や能力を大きく変えることもあります(プラスの方向にも,マイナスの方向にも)。
教師は,人間として常に謙虚でありたいものです。

「絶対評価」にあらずは「評価」にあらず(!?)

「絶対評価」にあらずは「評価」にあらず-学校現場はまさにこのような風潮に染まりつつありますが,私はこの風潮を是とすることはできません。

私には,目の前の生徒の能力や学力を「絶対評価」する力などありません。
私が,目の前の生徒の能力や学力を絶対的に評価する権利を持っているはずもありません。

目の前の生徒は,私の指導のまずさから,英語が苦手になっているのかも知れないのです。
目の前の生徒は,いまは芽が出なくても,高校に行ってその持てる力を存分に発揮するかも知れないのです。
目の前の生徒は,英語が好きになりかけていて,いまは「2」の力でも,これから「4」や「5」の力も身に付けるかも知れないのです。

生徒の「学力」は,いろいろな関わりや背景の結果として,今表面に表れている「学力」と言えるのではないでしょうか。

教師が生徒に及ぼす影響や生徒の発達特性,可能性などを考慮せずに(あるいは,無視して),
評価規準や評価基準を用いて,人間のある特定の時点での学力を「絶対的」に評価するために,多くのエネルギーを費やすことにどのような意味があるのか,
私は未だこの答を見いだすことができません。

教師がやるべきこと,心と力を注ぐべきこと

教師がやるべきことは,生徒が楽しく意欲的に学習に取り組めるようにあれこれ教材を工夫したり,授業の進め方を考えたり,大切なことややりたいことがいっぱいあると思います。

私は授業の現場で,
ファイル片手に必死にABCを付ける教師ではなく
生徒の学びにしっかり寄り添い,生徒が精一杯の頑張りで自分を誉めたいと思ったその瞬間に,
「いいぞ,その調子」「やったね」「凄いよ」と声がけができる教師でありたいと思っています。
それが本物の評価であると信じています。

以下に,「真の評価とは何か」を考えるための資料を紹介します。ご一読ください。

【仏様の指】

戦前にね,諏訪時代にしごかれた奥田正造先生が仏様の話をされたの。

仏様がある時,道端に立っていらっしゃると,一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。
車は,そのぬかるみにはまってしまって,男は懸命に引くけれども,車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても,どうしても車は抜けない。
その時,仏様は,しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが,ちょっと指でその車におふれになった。
その瞬間,車はすっとぬかるみから抜けて,からからと男は引いていってしまった。


指が触ったことを男は知らない。自分の力で抜いたと,思っている。そういうのが本当の教育というものだと。

大村はま著「教えるということ」(共文社)

【スティーヴィー・ワンダーの逸話】

ポール・ハーヴェーはラジオのレポーターとして知られているが,『後日物語』と題した番組の中で,心からの賞賛で一人の人間の人生が変わる話をしていた。

何年も前,デトロイトのある学校の女先生が,授業中に逃げた実験用のネズミを,スティービー・モリスという少年に頼んで,探し出してもらった。この先生がスティーヴィーにそれを頼んだのは,彼が,目は不自由だが,その代わりに,素晴らしく鋭敏な耳を天から与えられていることを知っていたからである。

素晴らしい耳の持ち主だと認められたのは,スティーヴィーとしては,生まれてはじめてのことだった。スティーヴィーの言葉によれば,実にその時――自分の持つ能力を先生が認めてくれたその時に,新しい人生がはじまった。

それ以来,彼は,天から与えられた素晴らしい聴力を生かして,ついには「スティーヴィー・ワンダー」の名で,1970年代有数の偉大な歌手となったのである。
『人を動かす』 D・カーネギー,創元社2016,p043

瞬時の評価で瞬時に指導を

有田 和正(教材・授業開発研究所代表,前愛知教育大学教授)
評価の基本は,

① 子どもたちが面白がって熱中して追究しているか
② 追究していることがしだいに見えるようになっているか(新しい世界が広がっているか)
③ その子らしい調べ方の工夫をしたり,調べ方ができているか
④ 途中で視点の転換をしながら追究そのものが深まっているか

といったことをつかんでいくことである。

このためには,一人ひとりの子どもをよくウォッチングすることである。テストはなじまないので,視点(今述べた①~④)を決めてウォッチングしたり,ふだんの言動と追究中の比較をしてみたりすることである。

これによって子どもへの支援のしかたが違ってくる。支援のしかたは,子どもウォッチングに基づき「瞬時の評価」をし,適切な支援をすることである。
あとでゆっくり評価なんてプロ教師のすることではない。授業の進行に合わせて「瞬時の評価」をし,「瞬時に指導」をすべきである。これが指導と評価の一体ということだ。

「長い目」「広い目」「基本の目」

『総合的な学習の時間~アプローチから実践へ~』文部科学省視学官嶋野道弘著(全国教育新聞社)

「総合的な学習の時間」の評価に必要な三つの目

子ども達の学習を木目細かく読み取っていくことは,決して単純な仕事ではない。また,どこかに完成された学習評価の手法があって,それを導入すればよいというものでもない。よりよい評価の在り方を模索し,創造していくことが教師に求められているといえる。そこで,「総合的な学習の評価」にあたって,求められる「三つの目」について述べておきたい。

まず,第一の目は「長い目」である。
この意味の一つは,その時その時の評価だけでなく,時間的な経過も視野に入れて,子ども達の学びを読み取って行くということだ。子ども達は,学習や体験を通して日々変化,成長をしていることを見落とさないで評価を行って欲しい。
この意味の二つ目は,一度に全員を見ようとするのではなく,ある期間を区切って意図的に全員を見ていくようにすることである。観点に基づく記録も一度に行うには限りがある。全員は見られないのが現実だ。

第二の目は,「広い目」である。
一つの方法だけでなく,多様な手法で子ども達の学びを読み取って欲しい。ある方法では,上手く評価ができない場合でも,別の方法を用いれば子どもの育ちが見えてくることがある。特定の評価手法に捉われることなく,評価に取り組んで欲しい。さらには,多様な方法を関連づけることである。観察して捉えたことと作品に書かれたことを結びつけて,より一層,深く,よく子どもを捉えることができる。

三つ目の目は「基本の目」である。
これは,観点に基づいた評価である。学習評価では評価の客覿性や妥当性は大切なポイントである。子どもや教師,そして保護者が子どもの成長を共有することも必要になつてくる。つまり,「開かれた評価」である。観点ごとの評価基準に基づいた評価は,「総合的な学習の時間」においても評価の基本である。

この『三つの目』は子ども達の学びの文脈を捉え,適切な評価を行って行くために必要な教師のスタンスを示している。
「総合的な学習の時間」は,子ども達が未来社会の中でよりよく生きることができるようにするとともに,よりよい社会を生み出していくために必要な「生きるカ」を育むための学習だ。「総合的な学習の時間」を,単に目新しい学習として捉えるのでなく,学びの本質を子どもと教師が追究し続けて行く貴重な時間であり,学習体験だと捉えて,その実現を目指していくべきである。

評価は子どもの成長へのメッセージ

『中等教育資料』平成14年4月号

翻って,教育評価の原点を問うと,評価する人々の評価される人に対する「成長へのメッセージ」になるであろう。児童生徒の成長に不可欠だと思うから,誤差成分も恐れずにメッセージを送るのである。

この自然な論理は,実は親子関係で最もよく理解できる。親は子どもに実にさまざまなかかわりをもち,意図すると否とにかかわらず,わが子の成長を願って,限りなくメッセージを送り続ける。子どもにも,親が何を思っているか,期待しているか,が大切なのである。両者の間に「基本的信頼感」があるから,評価の誤差成分や妥当性・信頼性がまったく問題にならない。

教室の魅力とは――どの子にも成長の実感があること

『大村はま-教室に魅力を』(国土社)

私は,中学生のよくない話,荒れる話はもちろんですが,学力がないとか,つまらない話し合いをしているとか,書くことがなくて,むなしく作文の時間を過ごしているとか,活字離れで本を読まないとか,そういうふうなことを聞きますたびに,たいへん心が痛むのです。自分の教室が今ありませんので,直接だれの顔を思い浮かべるということはないのですけれども,なべての中学生へのいとおしみのようなものが,私に残っていて,そういうことを聞きますと,在職中に自分の教え子のことをいろいろと言われたりした時と同じような,たまらないような気持ちがするのです。

そして,そういうことは,みんな,教室に惹かれるものがないから起こってくることだという気がして,いつも心の中で,「教室に魅力を」と,願うのです。ある時は,そう叫びたいような気持ちがいたします。それで,お話の題を「教室に魅力を」といたしました。あえて,良い,というふうなことばを使いたくないのです。良い,悪いは,簡単に言われませんし,何を良いと思わなければならないということも言えません。良い,悪いは,むずかしいと思います。良い授業,良くない授業,そういうことを言うことは,むずかしいと思います。今日だけ,良くなくみえても,それがどういう芽生えをみせるかも,わかりません。相手の子どもたちはたくさんいるのに,そう簡単に,だれかの授業に対して,これは良い授業だ,これはいけないんだということは,言えないという気がします。そういうことはむずかしくて,言えないという気がいたします。けれども,魅力というのは,そういう世界とちがうのです。いいからでも,なぜだからでもないのです。何だか,心惹かれてならない,そういうものが,教室にあったらと思うのです。

私は,それが,よくできる子どもも,あまりできのよくない子どもも育てていくものになるという気がして,魅力ということばで考えてみたいと思うのです。

教室の魅力というのは,できがいいとか,悪いとか,そういう世界を越えたというのか,それとは比べられない別のところに生まれます。学校でなくても,人と人との間でも,だれがどう偉いからということではなくて,わけは言えないまま,ただ惹かれることがあります。あれと同じものと思うのです。教室にそういう魅力があったら,本当に,あのことも,このことも,解決できるのではないかと思います。

その魅力というのは,簡単に言いますと,どの子にも,確かな成長感があることではないかと思います。自分自身が何らかの成長の実感がないときに,魅力を感じるということは,まず,ないのではないでしょうか。どんな低いところからの出発であろうとも,とにかく,自分自身が,そこで何か育っているという実感があれば,なんとなく離れられない気持ちが出てくるでしょうが,そういうものがない限り,非常にいい授業といわれるような授業でありましても,私は,やっぱり,魅力というものにはなっていかないのではないかと思うのです。

評価と試験はどう違うのか

『教師 大村はま96歳の仕事』(小学館)

次は評価の話です。戦後まもなく外国人による講習会がたくさんあり,私たちは順番に行ったわけです。そのとき,「評価」についてしつけられたと思っています。

評価というものは教師にとりましては,これから子ども達をどんなふうに指導していったらいいか,その「指針」を得ることである。一方,子どもにとりましては,自分自身がこれからどんなふうに勉強していったらいいか,それをしっかりと持つこと,自分に対する指針を持つこと,評価とはこの二つであると習いました。

私の聞き方が悪いとか,評価はそういうことではないとか,そういう意見があるかもしれません。あるかもしれませんが,私は一生懸命になっていた一人の専門教師としまして,外国人教師から聞きました評価ということの意味,試験とは違うということを習ったときに,教師自身が指導していく指針,それを確実につかむために評価ということをするんだと理解しました。試験というのは選り分けるためにするので,入学試験のためにもするし,いろいろです。だけど,評価ということはそうではないと言われました。そこから子どもは子ども自身の指針を得る。私は,評価の話をするのに,そんな観点に立っています。

絶対これだからこうだと,そんなことは主張してはいません。でも,私はこれを聞き,そうだと思いました。それでいいことだと思い,そのあとずっと「評価」という言葉をそのようにとってきまして,「試験」の代わりには使っていませんでした。けれど世の中がだんだん移ってくる間に,まもなく「評価」は「試験」と同じ意味になってしまいました。そしていろいろな問題が起こつて今に至っています。

子どもも私も,これからの指針を得る-そのための実験としてやったのが,次の資料です(40ページ参照)。その頃はワープロなどありませんから,手で書いています。書いてある内容も,「評価」ということを今述べたように考えないとよくわからないわけです。試験だの評価だのテストだの,いろいろな言い方がありますけれども,私の言う評価は,子ども達と教師自身との評価でありたい。これから,私自身の作ったものをお見せして,考えてみてほしいと思っています。
まごつかずにテストを受けられるように
中学校のテストというのは,みなさんご存知のように定期テストになっていますね。ですから子どもは小学校から来たとき,テストのあり方とか目的とか,すべてがよくわからないんです。ですから私はわからせたかったんです。国語のカを計るというのは,いったいどういうことをすることなのか。どんな考えでそういうことをして,どんなサンプリングを作っているのかということもわかるようにして,小学校のときのテストとは違ったものであることをまず認識してもらいたくて,「国語科テストについて」というプリント(41~42ページ参照)を作ったわけです。

子ども達が中学校の試験を受けるのにまごつくとか,何日から何日までテストだとか試験だとかいったならば,どんなことがあるのか,子ども達が間違ってしまったのでは話になりません。これからどんなことをしておいたらいいのか,みんなにわかってもらいたいというつもりで作っておきました。

テストのときには,問題が一つに綴じてあります。初めて定期テストを受けるとき,子ども達にとって初めてのことですから,テストのやり方などについて,何も疑問がない状態でやらせかったのです。紙が一枚足りなかったとか,そこに何を書くのかわからなかったとか,答えをどこに書くのだろうと思ったとか,そういうテストの内容に関係のない,つまらないことで迷ってはいけないと思っていました。「評価」という言葉を使っているからには,調べることの中身が十分理解され,方法がよくわかって,自分がこれからどんなことをやったらいいかを把握できるような準備をしなくてはなりません。ただばっとテストを配ったりしては困ります。

このごろ,全国的に行われた一斉テストの結果が悪いとか,いろいろ聞きますが,作問するときにそういう心遣いがなかったのではないかという気がいたします。ひょっと見ると,実に問題に対して不親切。何をやるのかな,どうやるのかな,どこへ書くのかなといったようなことが,みんなテストの点の中に入ってしまっていて,純粋に国語の力がわかるようにはできていません。そういう心遣いがちっともないところでは,「評価」の意味が違ってくるのではないかと思います。

「評価」というと今では入学試験が代表的ですけれども,これは答えを間違ったらだめなので,「これ勘違いしましたから」という言い訳などはないわけです。そういう,いわゆるテストというものとの違いが,はっきりしていないのではないでしょうか。

「学力低下」と言う場合,誰がどういうテストをしたのか知りませんけれども,問題作成にしましても,「評価」の意味を「試験」という意味にとっているから,ただできるかできないかを試すといったところが中心になるんですね。「評価」を私のように考えていれば,そういうことはできないはずです。それが今は,いろんな雑な知恵のようなものをはたらかしながら,偏ったテストをしている気がしてなりません。