tanbowaii's world
HOME > 授業論 > 新教育課程の編成と展開

新教育課程の編成と展開

東京学芸大学教授 児島 邦宏氏 (2001.4.20 宮城県教育研修センター)

ご紹介いただきました児島でございます。
平成8年7月の中教審の第一次答申に始まった一連の教育改革は,昨年12月の教育課程審議会の答申をもちまして政策的には一応の締めくくりということになりました。学校からみると,いよいよこれからが本番ということになります。今日は,「当面する学校の課題」ということで,いくつか気がかりな点も含めてお話ししたいと思います。

1 教育課程編成の基本姿勢

(1) 子どもからの教育改革

最初に,一連の教育改革の特徴を一言で申しますと,「子どもからの教育改革」ということになると思います。「子どもから」ということは別段「子どもを甘やかす」とか「子どもにおもねる」ということではありません。子どもの視点からこれまでの教育を振り返り,改革の方向を探っていこうということです。そこで,「生きる力」を中心とした一連の教育改革が行われてきたわけです。 その中で大事なことは「これからの世の中は,われわれが生きてきた以上に大変厳しい世の中になっていくであろう」「非常に生きにくい世の中になっていくであろう」という認識が土台にあるということです。激しく厳しく揺れ動く世の中をしっかりと見つめ,受けとめ,主体的に生きていこうとする社会的に自立した人間として,子どもたちを育てていくにはどうしたらよいか,ということが教育の非常に大きな課題になってきたのです。こういうことから「生きる力」という言葉が出てきたわけであります。
具体的に世の荒波としてどういうことがあるかというと,国際化とか情報化,環境問題,少子高齢化などさまざまな問題があるわけです。特に環境問題でいえば,われわれ人間が生み出してきたいろいろな問題によって,極端な話,人類の生存が危ぶまれる状態になりつつあります。一体これをどうしていくのかということです。次の世代にとってみれば,今以上には難しい問題になっていきます。こういうことをきちんと受けとめながら,乗り切っていかなければならないわけです。

(2) 少子高齢化社会

少子高齢化問題は大変厳しい問題です。2025年には,人類史上経験したことがない段階にわが国が突入すると予測されています。その予測は,データによると10年程早まって,2015年頃になるとも言われています。つまり,わが国の全人口の25%が65才以上という高齢化社会になるということです。子どもと専業主婦が全人口の23%を占める見通しです。つまり,わが国の生産人口が全体の2分の1しかいないという時代を迎えるわけです。つまり,2人で稼いで,4人を養わなければならないのです。その時代の社会の中心を担う世代が,今われわれが目の前にしている子どもたちなわけです。今の小中学生がだいだい40才前後,大学生が50才前後になり,社会の屋台骨を担わなければならないのです。この子どもたちが2人で稼いで4人を養うという責任を担っていくわけです。しかし,それは不可能だと言われています。生産人口がそこまで減ったら,社会が成り立たないと言われています。
それでどうするか。今までのままでやろうとすると,消費税を20%近くまで上げないとどうにもならない,と予測されています。定年延長という問題も出てくるでしょう。生産人口が減るわけですから,定年を延長して70才位まで働いてもらわないと困るわけです。老後は退職金で海外旅行でもしようか,などというのは大変甘い考えでありまして,老後はないという風に考えた方がよいのです(笑い)。働き終わったら,それで終わりという時代が来るかも知れないのです。

(3) 国際化社会

それから,もう一つは,生産人口の不足を補うために,外国人の働き手をどんどん迎え入れないとだめだということです。身の回りにたくさんの外国人が働いている,外国人に働いてもらわないと社会が成り立たないという時代がやってきます。国際理解などという言葉では対応できない時代です。まさに多文化共生社会です。多様な文化,ものの考え方,生活習慣の違う人が回りにたくさんいる,こういう人たちとどう共生して生きていくのかということが課題になっていくわけです。こういう社会を念頭におかないと,生きていけなくなります。
以上,どちらかというと社会経済的な側面から問題をとりあげましたが,社会構造的な側面からみても,「共生」「共に生きていく」ということが大きな教育課題となってきます。「一人一人が自分のことを大事にする」という現在の教育を引き継いでいきながら,もう一方で,「互いを支えあって生きていくこと」「共に生きていくこと」の大切さを教えていかないと,これからの社会はなかなか難しくなります。心の教育の問題が重要になっていくわけです。
そういうことをにらみながら,子どもたちにどんな力を付けていかなければならないか,ということから出発したのが,今回の教育改革の特徴といえるわけです。そこから,「時代の流れに押し潰されずに,しっかり見てとり,自分だったらこうするという行動力のある子どもたちをどう育てるのか」ということで一連の教育改革が進められているわけです。

(4) 世代間交流

総合的な学習などで小学生がデイ・ホームなどを訪問することがあります。いったい何をするんだろうということで,私も一緒にくっついていくわけです。 特に都会の子どもに多いんですが, 2時間,3時間「気をつけ」の姿勢でじーっと立ったまま,おじいちゃん,おばあちゃんを眺めて,一言もしゃべらずに帰ってくる子どもがいます。 1クラスに3,4人,多いときには4,5人います。核家族化の影響をもろに受けているのです。つまり,お年寄りと日常的に接する機会が少ないうえに, デイ・サービスにみえるおじいちゃん,おばあちゃんは少し身体がご不自由でいらっしゃるかたが多いわけですから,何をどう話しかけてよいか分からないのです。 だから,じーっと眺めているしかないのです。先生の中には「こういうことをやっても意味はない」「子どもは声も出ない。これでは,わざわざ2時間も使って行ってもしょうがない」と言う方も多いわけです。 しかし,3回くらい行くと,少しずつ声が出るようになります。1回目は本当に緊張して,何が何だか分からないまま帰ってくるわけですが,だんだん分かってくるんです。 こういう時代の中で介護問題を一体どうしていくのかという問題があるわけです。

(5) 核家族化の弊害

もう一つ核家族化の影響をもろに受けていることがあります。
愛知県のある小学校にお邪魔したときに,6年生が赤ちゃんの育児体験をやっていたのです。まだハイハイもできないような赤ちゃんを相手に,実習をしているわけです。その中に,非常によくできた赤ちゃんがいたのです。この赤ちゃんはある男の子が抱くとつっぱって嫌がるんです。男の子もなんとかなだめてなつかせようと20分くらい一生懸命頑張ったのですが,いっこうになつかないのです。なぜこの赤ちゃんが優れているかというと,隣の女の子が抱くとすぐ泣き止むからです。それで,こんなに優れた教材はないと思ったわけです。
その男の子はあんなに徹底的に人から嫌われた経験がないのではないかと思います。殴るわけにもいかない,あやしてもだめ,どうしようもないわけです。赤ちゃんが泣くのは「オムツが汚れている」とか「お腹がすいている」とか「眠たい」からだとか,私たちはいろいろな情報を知りながら子育てをしてきたわけですが,少子化の時代の子どもたちはそういうことを知らないわけです。赤ちゃんが泣いている原因は何かという情報を,つかめないと子育てができないわけです。自分は赤ちゃんを抱いたことも,面倒見たこともないのです。兄弟が一人か二人しかいませんから,触ったこともない。ほとんどの子どもがそういう生活の仕方をしている。このまま父親母親になっていったら大変なことになるわけです。子どもが泣いたらどうしていいか分からない。最近の幼児虐待の背景には,このような核家族化の影響があると思われます。
おじいちゃん,おばあちゃんとの関係もそうですけれど,自分より小さい子どもたちとの関係,つまり世代間の交流というのが非常に大きな問題になってきているわけです。というのは,今の子どもたちは生まれたときから大学を出るまでずっと同一年齢の者の間で生活してしまう社会環境にあるからです。実社会は異年齢の者で構成されています。にもかかわらず,それを経験したことがないのです。だから,そういう場面になるとどうしていいか分からなくなるのです。人と人との関わり,あるいは,人と自然との関わりというような共存とか共生という問題が,これからの教育の中で,非常に重要な問題になってきた,というのが一つの特徴ではないかと思われます。

(6) 子どもの居場所としての学校

子どもの視点から教育改革が出発したわけですが,非常に興味深いのは,平成10年に出された教育課程審議会の答申の中で,子どもの視点から見て「これからの学校はこうでなければいかん」ということを初めて描いたことです。これは当たり前のことではありますが,非常に重要なことだと思います。

① 学校というところは,子どもたちが伸び伸びと過ごせる場でなければならない。
② 学校というところは,興味・関心があることにじっくり取り組めるゆとりがなければならない。
③ 学校というところは,分かりやすい授業が展開され,「分からないときには分からない」と自然に言え,「途中でのつまずきや試行錯誤が当然のこととして受け入れられる」,こういうところでなければならない。
④ 子ども同士や子どもと教師の信頼関係が確立し,子どもたちが安心して力を発揮できる場でなければならない。

以上の4点にまとめられています。

これらを一言でいってしまえば,広島大学名誉教授の片岡先生が言っているように,「支持的な風土」がなければならない,ということだと思います。「子どもが自分の力を十分に発揮できる。そして,それを先生は認め,喜ぶ。子ども同士もそれを認め合い,大事にしていく」-そういうふうな学校や学級が用意されていないと,子ども主体の教育は成立していかないのです。こういうことを教育課程審議会の答申は述べたわけです。

答申と関わって,「ことば」についていくつかお話したいと思います。

(7) 「ゆとり」とは

まず,「ゆとり」ということばです。私たちは,自分が興味・関心を持っていることにじっくり取り組むにはゆとりが必要なんだということで,「ゆとり」というものをとらえています。今「ゆとり教育」に対しての批判が盛んになされていますが,「ゆとり」ということをちょっと誤解してとらえているように思います。「あぁ今日はいいお天気だね」と何もしないで空をぼーっと眺めている,こういうことを「ゆとり」というのだと。しかし,そういうことを「ゆとり」と言っているわけではありません。一人一人が課題に対してじっくり取り組むことができる時間的な「ゆとり」や,自分の力をフルに発揮しながら課題に没頭することで味わうことができる精神的な解放感,「ゆとり」をさして,「ゆとり」と言っているわけです。だから,学校は何もしないで,空ばかり眺めている,そういうイメージで「ゆとり教育」を批判されると大変困るわけであります。

(8) 「支持的な風土」とは

それから,「支持的な風土」ということで,非常に印象に残っているある中学校のことを紹介したいと思います。この学校は,どの教室を見ても生徒がどんどん手を挙げる学校であります。先生そっちのけで,生徒同士が激しくやりあうわけです。こういう授業風景がどの教室でも見られる非常に珍しい学校です。その学校の校長先生に「なぜ生徒がどんどん手を挙げるんですか」と聞いてみたんです。そうしたら,「戦後開校以来の伝統なんです。そのために,子どもたちに『学校というところは間違えるところだ』としょっちゅう話しているのです。『学校は正しいことを言うところではないんだ。初めて勉強することだから,間違えるのは当たり前なんだ。正しい答えが分かっているんだったら,学校に来る必要なんかない。正しい答えが分からないから,みな学校に来るんだ』と言っているのです。それで,勉強はなぜ家庭ではできないかというと,『君たち一人一人が考えてもたかが知れている。だから,みんなで学校に集まって,ああでもない,こうでもない,と知恵を出し合わなければならない。 そして,いいやり方や考え方をみんなで探していくのだ。家にいても本当の勉強はできない。だから,みんな学校に集まって勉強するのだ』ということを絶えず生徒に訴えている」ということでした。 その学校では,「自分はこう思う,こう考える」というように自分の考えを持つことを,一番大事なことだと教えているのです。

2 学校の創意工夫と特色ある学校づくり

(1) 「特色」とは

次に,学校の創意工夫と特色ある学校づくりについて,お話ししたいと思います。 学校の先生方の集まりに行きますと,「特色としてはどういうのがあるんでしょうか」とよく質問されます。「それは答えられません」とお答えするわけです。この場合の「特色」というのは,何を念頭においているかといいますと,「何か周りの学校にない,ものめずらしい,奇抜なもの」を考えているのではないかと思います。
子どもの姿をじっくり眺め,この子どもたちに何が必要であるかを考えて,家庭や地域と連携しながら,教育実践をすすめていくことが大切です。足元をしっかり見つめ,探し出してつくったものを「特色」というわけです。子どもが違えば,子どもが生活している地域も違う。よその学校と同じになるはずもないわけです。そういうことを大事にしていこうということであります。よそにないことを各学校でやりなさいと言っているわけではないのです。そういうことをやると,かえって目の前の子どもを忘れてしまいます。そういう教育実践はたいがい2,3年でだめになってしまいます。子どもなり地域なりにしっかり根を張った教育をやっていかないと,子どものためにならないし,長続きしないのです。足元をしっかり踏み固めて,その学校ならではの教育を大事にしよう,といっているのです。だから結果的に隣の学校と同じであっても結構なのであります。そういうことを特色ある教育といっているわけです。

(2) 「基礎・基本」とは

次に「学力」とは何か,あるいは,「基礎・基本」とは何かということについてお話したいと思います。
昨年12月に出された教育課程審議会の答申の中で,「学力」についての考え方が示されています。つまり,「学力」を知識の量でのみとらえるのではなく,学習指導要領に示す基礎的・基本的な内容を確実に身につけることはもとより,それにとどまることなく,自ら学び自ら考える力などの「生きる力」がどの程度養われているか,ということでとらえる必要があるということです。ここのところは,答申がでる寸前までみなで意見を闘わせた部分でありますが,つまり,「知識」か「考える力」か,「基礎・基本」か「生きる力」か,というような二項対立的な考え方は成り立たない,という考え方をしているわけです。知識や技能を無視しているわけではありません。ただ,それだけを追い求めているこれまでの教育に問題があったと言っているわけです。知識を軽視しろと言っているわけではないのです。
「基礎・基本」とは何かということをめぐって,いろいろ議論がありますが,学習指導要領に示されている「知識や技能」「意欲や思考力」「判断力」「表現力」など,学習指導要領の中で各教科で示されているものすべてを含めて,「基礎的・基本的内容」と考えているわけです。「『基礎・基本』は知識だ,『考える力』は『基礎・基本』ではない」というようなことを言っているわけではないのです。「学力」をバランスの問題としてとらえているわけです。「どれが大切で,どれはいらない」とか言っているわけではないのです。基礎的・基本的な知識内容をきちんと身につけていないと,ものの見方,考え方が生まれてこないわけですし,また,いろいろものを見たり考えたりした結果として知識というものが獲得されていく,そういうものとして学力とらえていこうとしているわけです。

3 特色ある教育活動の展開

(1) 創意ある教育活動

次に,具体的な特色ある教育活動を展開していく上で,特にどういう点が強調されているかということで,教育の中味についての特色をお話したいと思います。大きく5点についてご説明します。

第一に,総合的な学習の時間をどうするかということであります。

これは学校にすべてをゆだねてしまったわけですから,学校が最も特色を出さなければならない部分です。

第二に,選択履修幅の拡大の問題であります。

注目すべきは,小学校の高学年から教科内での選択学習をしてもよいとしていることです。これは,中学校の選択学習に向けた助走としての位置付けがあります。小中学校の接続の問題として,子どもたちの選択能力を育てるということをねらっているわけです。

川崎市のある小学校の産業学習(5年生)の例を紹介します。伝統工芸の学習として教科書では輪島塗をとりあげているのですが,あまり身近でないし面白くないということで,子どもたちに何をしたいかを聞いたところ,郷土の伝統工芸を調べたいという答えが返ってきたそうです。具体的には,鎌倉彫や箱根細工,益子焼,江戸千代紙細工の他に,博多人形をやりたいという子どもが10人程いたわけです。4つのクラスを解体して5つのコースを設定して,思い思いに選択学習に取り組んだわけです。自分が選んだものに対してしっかり責任を持って学習に取り組む子どもたちの姿,ものすごいエネルギーに教師の方が圧倒されたそうです。

一番驚いたのは博多人形コースの取り組みです。東京に行って日本伝統工芸振興協会のようなものを探し出してきます。そこで博多の人形組合の紹介状をもらってきます。子どもたちは切々と手紙を書きます。送られてきたりんご箱一杯ぐらいの資料の山を前に,休み時間も,放課後も残って調べるのです。そして,せっせとまた手紙を書くのです。鎌倉彫を選んだ子どもは実際に作業の現場を見に行きます。学校の先生が行くのでなく,親を巻き込んで見に行くのです。

このような選択学習がなぜ面白いかというかというと,伝統工芸についての学習を,いろいろな角度から進めるからです。富士山に登るという課題があるとすれば,頂上までは全員登らせなければなりません。ただし,登っていく道筋(教材)は違ってもいいわけです。むしろ,どこから登るかは子どもの選択にまかせてもいいのではないでしょうか,その方が責任をもって学習を展開していくと思います。

川崎の場合は,5つの班がそれぞれ別な題材について学習します。そして,その内容を発表し合います。子どもたちは,5つに共通するものは何であり,共通しないのは何かということを考えながら発表を聞くわけです。子どもたちの学習に横糸がきちんと入っていくのです。子ども自身が「伝統工芸とは何か」ということを一般化してとらえることができるわけです。輪島塗しか学習しなければ,輪島塗固有の問題なのか,伝統工芸に一般化される問題なのか,その仕分けができないのです。いくつかのコースに分かれて学習すると,かえって学習の質が高まり,豊かなものになっていきます。子どもに教材の選択を任せてもよいという単元では,積極的に選択学習に取り組みたいものです。

第三に,複数学年にまたがって指導内容を示しているものが前回よりも増えているということです。

算数と理科は学年毎に示していますが,その他の教科・領域は基本的に低学年・中学年・高学年(社会は3・4年のみひとくくり)という形でしめしています。複数学年にまたがって示している教科については,指導の順序をどう並べていくかは,各学校の創意工夫に任せています。各教科の指導計画をどうつくっていくかということは,目の前の子どもをしっかり見て,各学校が決めなければならないわけです。なぜそうしたかというと,子どもの成長や発達のとらえ方が変わってきているといことが背景にあります。子どもははしごを昇るように直線的に成長するものではない,上に伸びたり,下に伸びたり(潅木型),複雑に成長しているのではないか,という最近の考え方に基づいています。

第四は,心の教育の問題です。

都会のように核家族化が進行し,一人暮らしのおじいちゃん,おばあちゃんも多い状況の中で,世代間交流一つ取り上げても大切な学習課題になってきます。また,健康の問題も非常に大きな課題になってきています。心身の健康の問題をいろいろなところで扱っていきますが,学校としてどこの部分にどれくらい時間を充てるか,全体計画をよく練って進めていく必要があると思います。

第五に,ガイダンス機能の問題であります。

子ども主体の学習を進めたり,子どもの成長を後押ししたりするために,ガイダンス機能の充実が求められています。進路指導の分野はもちろんのこと,学校不適応の問題を解決するためにも,ガイダンス機能の充実が不可欠となっています。

(2) 教育課程の運用の弾力化

教育活動を営んでいく上で,教育課程の運用の弾力化が求められてきています。

その一つは,学習集団の弾力化です。

少人数指導,習熟度別学習,小学校における繰り返し指導,というかたちで,これまでのどちらかというと「1回きりの教育」を改善して,身に付けるべきことはきちんと身に付けさせるために繰り返して指導を行うというように改めてきています。

それから,指導体制の問題として,特にゲストティーチャ-の問題があります。

これは総合的な学習と深く関わってきます。総合的な学習は,教科を横切り,教科を越えたところから出発する学習であるため,「指導者がいない」という声が現場からあがっています。教科を中心として教員を配置している現在の状況では,指導者がいないのは当然であります。だから,この問題を解決するには,学習しようとしている課題に対応できる指導者を外に求めるしかないのです。

具体的な例として,静岡県の富士市の例を紹介します。市全体で「富士山学習」という総合的な学習を行っています。年一回市内の全部の小・中学校や市民が一堂に会して,発表会を行っています。富士山というのは毎日崩れているんです。地元に住むものとしては,いたたまれない状況があります。そこで,中学生の中に「大沢崩れ」の研究をしたいというグループが現われたわけです。子どもにとって非常に身近な課題です。彼らは強い課題意識を持って取り組もうとしているわけです。「地質工学や土木工学の専門家がいないから諦めなさい」というわけにはいきません。そこで,砂防ダムの工事事務所(建設省管轄)の技師に指導を依頼したわけです。子どもの興味・関心は,学校の教科で扱っているものを飛び越えていってしまうものです。これからは,子どもの興味・関心にどう応えていくかというのが大きな課題になってきます。

もう一つ考えなければならないのは,建設省の技師にお願いすれば,すべてうまくいくかということです。一般的にはうまくいきません。それはなぜか。その技師は教育の専門家ではないからです。教育の専門家でない方々の一番の課題は,「知っていることをすべて教えたがる」ということです。「これはこうだからこうなっているんだ」とみんな説明してしまったら,考える力は育っていきません。問題解決能力が身に付かないわけです。だから,中味についてはその人が専門家ですが,もう一人,教育の専門家,つまり学校の先生が一緒にいなければならないのです。

「おじさんはああ言っているけども,どうしてそうなのかみんなで考えてごらん」とか「この先,おじさんはどうやってこの問題を解決していったのだろうか」「君たちだったら,この問題をどういうふうに解決していくだろうか,来週まで考えてきなさい。君たちの考えとおじさんが実際にやったことをつき合せて,みんなでまた考えてみよう」と,一言いってくれるのは先生なんです。素人にはできません。学習を豊かにしていくのは教師の仕事です。仕事の違う人,専門の違う人同士のTTが,非常に大事になってきたわけです。今までは専門の同じ人同士でTTをしてきたわけですが,これからはむしろ異業種・異専門(教諭と栄養技師,教諭と養護教諭など)のTTが非常に大切になってきています。

さらに,学習時間や日課表などを弾力化していくことが求められています。

とくに時間の柔軟化,弾力化が大きくクローズアップされた点であります。しかし,これが一番難しい点だと思います。これまでは時間という枠が先に決まっていて,その中でどうしようかというふうに考えてきました。しかし,物事はその逆ではないかと考えるようになってきています。こういう活動をしたいから,これだけの時間が必要だ,という考え方が本筋ではないかということです。従来の「時間が優先する」という考え方から「活動が優先する」という考え方に意識を変えていく必要があるのです。また,現在の時間割は1週間を単位として組まれているわけですが,これからはこれも見直していかなければならないと思います。3日間集中して学習した方がいいとか,数ヶ月おきにとびとびで学習した方がいいとか,いろいろ考えて指導計画を弾力的に考えていくことです。これは,中学校・高等学校では非常に難しいことです。あと10分あれば学習が深まったのにといっても,次の教科の授業があるわけですから,非常に難しいわけです。

そして,学習の空間とか環境の整備充実を図っていくことが求められています。

特に総合的な学習などのような学習では,地域がフィールドになります。地域に出て安全に学習活動を展開していくために,保護者や地域の協力を得るなどの配慮も大切になってきます。情報環境の整備も大切になってきます。子どもたちが調べようと思ったときに,必要な情報環境が整備されているかどうかが,総合的な学習の成否を分ける決め手になります。本やパソコンなどの学習情報が必要なときに整備されていなければ,そこで学習活動がストップしてしまうからです。

(3) 総合的学習と特色ある教育活動

最後に,総合的な学習についてお話ししたいと思います。「総合的な学習の時間」のねらいをひとことで言えば,現実の世の中をしっかり見せながら,子どもを一人前の大人にしていくということです。最初に申し上げましたが,子どもたちが直面しなければならない諸問題と深く関わって,「総合的な学習の時間」を創設したということであります。われわれが生み出してしまった様々な問題を乗り越えていく力を,これからの子どもたちは身に付けていかなければならないのです。子どもたちが日常的にそういう厳しい問題を見つめながら育っていれば,このような学習は必要がなかったのですが,子どもの生活は現実からだんだん離れつつあったわけです。つまり,体験の喪失です。社会と触れ合っていないのです。大変厳しい時代が待っているのに,子ども自身はそういうことを全く考えないまま育っていくわけです。このような状態をなんとかしなければなりません。世の中にある現実の問題ですから,教科を横切って,教科の枠を越えて存在しているわけです。 「総合的な学習の時間」が創設された所以はここにあります。これが本当に妥当であったかは,これからの実践を通して明らかになることであります。

教科等と総合的な学習の関係はどうかというと,互いに支え合う関係ということになります。もっと言えば,教科の力がきちんと身に付いていなければ,総合的な学習が学習として成り立たっていきません。実社会の問題を扱っていますから,いわば鬼退治に行くようなものです。頼りになるものは何かというと,教科の力です。教科等の力を身に付けずに鬼退治にいくことは,素手で難敵に立ち向うようなものです。鬼の力に圧倒されて手も足もでないというのでは,問題は解決できないわけです。教科の力を土台として,ものの見方,考え方,迫り方を総合的な学習の中で子どもたちにしっかり育てていきたいものです。

ある中学校の環境学習を例にしたいと思います。あるデータをインターネットで引き出していましたが,そこまでは立派なのです。しかし,残念なことに,データを情報として読み取ることができないわけです。要するに数式や意味が分からないのです。数学の力がないから,データが役に立たないのです。家に帰って数学の教科書をひもといて,そうかそういうことだったのかと納得するわけです。そこで初めて,子どもはなぜ数学を勉強しなければならないかということをはじめて実感するわけです。そういうことで,教科等と総合的な学習の関係は,相互に補完・刺激しあう関係になっているのです。

教科ではできなくとも,総合的な学習でならできるというものがあります。つまり,挫折とか失敗体験,試行錯誤を認めることができる,または,意図的に盛り込むことができる,ということであります。「総合的な学習」は基本的に経験単元であり,大単元方式をとることができるため,ひとつの単元に30時間,40時間と,とることができるからです。

私の学校で「豆腐をつくろう」という単元に生活科で取り組んだことがありました。学習の山場が単元の始めにくるという珍しい単元です。今年も,そろそろその山場にさしかかっているはずです。「種を植えても植えても芽が出ない」という大問題に直面しているはずです。虫が食っているのではないか,病気になっているのではないか,もぐらが食っているのではないか,毎日原因探しをしているわけです。あるとき学校に早くきた子どもが大発見をするんです。「なーんだ,鳩ぽっぽが食っていたのか」と。そこで,全員が対策会議を開くわけです。案山子を4時間がかりでつくって,また種をまく。それでも芽がでない。都会の鳩やカラスはそんなヤワじゃありません。案山子なんか問題にしません。さらにチャレンジして失敗を繰り返して,最後には「網をかけよう」という結論に達するわけです。種まきから芽が出るまで1ヶ月以上かけて,余裕を持って学習するのです。そういう試行錯誤を大切にしているわけです。

総合的な学習や生活科の学習で挫折や失敗を繰り返すことによって,心の耐性が非常に強くなります。少々のことでへこたれなくなります。心が粘っこくなります。「生きる力」をしっかり身に付けることができるわけです。総合的な学習にはそういうよさもあるわけです。


ああでもないこうでもないと,ちょっとまとまらない話になってしまいましたが,時間がまいりましたので,以上お話申し上げまして,何かの参考になればと思います。どうもありがとうございました。