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一斉指導でこそねらえるもの

筑波大学附属小学校教諭 坪田 耕三
『指導と評価』 図書文化 2003年2月号

今,算数授業への関心が高い。学力低下の論議がそうさせるのである。少人数指導・習熟度別学習の対象も,大半が算数である。しかし算数の授業には,一斉指導でこそ生きるものがある。多様性の尊重,協同的思考,価値の共有である。このことは学校教育の価値と言っても過言ではない。もう-度,一斉授業のよさを考え直すべきだ。その上で,少人数指導・習熟度別学習への方法を再考したい。

1 今,算数かあぶない

文部科学省国立教育政策研究所が行った「教育課程実施状況調査」の中間的な発表がなされた(平成14年12月14日)。マスコミ各社は一斉に,またもや「学力低下」の論をふきあげた。対象の中心は「算数」である。
何人かの学者はこれに対して,基本的な問題ができないのは,時間数が減ったことに起因するとか,子どもの学習意欲がなくなってきたからだとか言っている。今後は「読み書き計算」をもっと重視すべきといったことを言われていた方もいる。
このような現実に呼応するように,現在行われている「算数授業」に対しても,様々な批判が浴びせられている。そのいくつかを見ると,現在の日本の学校が抱える算数授業の問題点が浮き彫りになる。

一つには,型にはまってしまった身動きならない問題解決型の授業はよくない,本当に子どもの問題意識を喚起して,それに応じる授業が展開されなければならないというものである。そのとおりである。考えることの大事さ,楽しさを子どもに味わってもらおうと戦後一貫して行ってきた方法が,なかなか実を結ばない。

これに対して,教科書を使わずに行っている問題解決の授業が悪いのだ,と短絡的に批判するむきもある。

また,別の方論法的問題としては,多人数で学習することがそもそも問題だとして,一人一人に目がかけられるよう教室の人数は少人数にすべきであるという方法も論じられる。実際,このことに関して全国で教員の加配が「条件付き」で行われている。国語・算数・理科のどれかで少人数指導を行うといった条件や,必ず異なる学級の子どもを一緒にするべきといった条件である。したがって多くは,算数の授業になると今ある学級が分割され,少人数の別グループ編成で行われている。

若い教師が,この少人数加配に充てられ,多人数の指導が下手になったと心配する校長もいるくらいである。あげくの果てに,予備校の教師を学校教育の中に招いて,その方法を真似し,一方的な講義形式の方法を現場教師に強いるという動きもある。

このような現状の中で,われわれはどのように「算数授業」を実現していけばいいのであろうか。
私は,一授業者として,このまま世間の声を真に受けていたのではよくないと考える。「今,算数があぶない」とまで,危機意識を抱いているのである。

2 算数はもともと考える楽しさを味わう問題解決的な授業である

算数の授業は本来,「問題解決」の授業であることは確かである。子どもがすでにもっている知識や意欲を拠り所にしながら新しい知識を創造することが望ましい。それでこそ考えることの楽しさを味わい,問題解決の仕方も身になっていく。
したがって,ただ,問題解決の手順を指示的に教えて,あとはその訓練だけとなっていったのではだめなのである。それでは,いつまでたっても,子どもにとって指示待ち算数にしかならないからである。

少人数の指導にしても,そこで,議論をしながら,自らの考えを他の仲間に伝え,他の仲間の考えにも自分の批判を加えてこそ,新しいものが生まれてくるのだという体験がなければ,有効な学習にはならない。

最も問題だと考えるのは,習熱度別学習の際に,レベルの低いと判断されたグループには,ただドリル的なプリントだけが与えられることである。そこでは形式的な計算の方法だけが繰り返される。「なぜ」は問われない。これでは,ますます算数嫌いが増えるだけである。
基礎的な計算技能ももちろん大切である。
しかし,反復練習によるレベルの低い訓練から脱却して,算数の原理に基づく理解のもとに練習させることが必要なのである。

今や,海外の日本に対する注目は,日本の一斉授業に対する授業研究である。特に米国では大変なものであって,今や運動のように,日本の「授業研究会に学べ」と広がっている。このことに,我が国も心しなければならない。例えば,『The Teaching Gap』いう本の訳本『日本の算数・数学教育に学ベ-米国が注目するjugyou kenkyuu』(教育出版,2002年)が,今多くの算数授業者に読まれていることからもそれがわかる。

3 一斉授業でこそねらえるもの

なぜ,算数だけが少人数指導や習熱度別の学習なのだろうか。体育や音楽はどうなのだろうか。鉄棒や笛を吹くことに関しては,このような必要はないのだろうか。素朴な疑問である。

算数だけには,計算もできないようでは大変であるという危機意識がはたらくのであろう。そして,指導の対象となる人数さえ減らせばうまくいくと考えるのであろう。

その時に忘れ去られているものがある。
「学校教育の価値」の大切な部分である。学校はたくさんの子どもたちがいてこその学びの場であるということである。
その中で得られる授業の体験は個人教授や塾にはないものである。それを忘れての少人数指導や習熱度別学習であっては学校教育そのものが危機に立たされるのである。

では,学校教育の価値とは何か。次の三点を挙げたい。

  1. 多様性の尊重
  2. 協同的思考
  3. 価値の共有

第一の「多様性の尊重」であるが,大勢の仲間の中には,自分とは異なる様々な考え方や行動をする者がいるということを体験的に感じ,それを受け止める場となる学びである。子どものもつ好奇心や受容力に培う学びの場が与えられているといってもよい。
異なる存在が身近にいるということが,個人としての人間性を豊かなものにしていくのであり,これはたった一人ではできないことである。
幼児がその学びの場を広げていく過程を眺めればすぐに気づくことである。初めは母親から学び,徐々にその世界を広げ,家族から学び,そしていよいよ家庭から外に向かって,公園の砂場で別の友と接し,やがて学校という場に入り,新しい集団の中で自分と異なる存在に気づき,自分の世界観を広げていく。
では,算数の授業に見られる「多様性の尊重」とは何か。

1年生が「8+6」の計算方法を考える場面を例に,考えてみよう。

こうした話し合いを通じて,多くの子どもは「いろいろな方法があるんだな」と感じる。

しかし,教える側からすると,こんなにいろいろな方法を登場させても混乱するだけだから,まずは最も分かりやすい方法を教えて,計算方法にはいろいろあるが軽重をつけていくべきだとする考えがある。教える側も楽だし,学習する子どもも分かりいいと判断してのことである。しかし,これでは好奇心は育たない。多様な考えを認める受容力もつかないし,それぞれのよさを尊重する態度も体験的に身につかないのである。

第二の「協同的思考」は,これこそが,みんなで学習するといった場の体験である。分からない子がいれば,自らのアイデアを提供する。自らが気づいたことを一緒に学ぶ他の子ヘヒントとして提供する。するとまた,別の子がその気づきに補足をする。果ては,一人では気づかなかったことが,大勢の学びによって創造されることになる。

例えば,わり算の問題「長さ76mの針金で正方形を二つ作ります。一辺の長さは何mでしょう」という問題がある。

みんながいてこその発見という学習である。

第三は「価値の共有」である。これは,学習の過程で得られた知見をみんなのものにしていこうという態度である。結果の共有というよりも,共に学ぶ過程での考え方や学び方の共有といってよい。先の例で言うならば,「ああ,同じ大きさの正方形だとばかり思っていたのに,大きさを変えてみたらどうかと考えれば,発想が異なってくるのだな」と学ぶことである。つまり「条件の欠けていることを補ってみる」という学びの態度を共有しょうということだ。これは,そばにいる教師がこれを強調してやることで,学びの姿勢がより明確になるのである。大切な教師の役目といってよい。

これらは,一斉授業でこそねらえるものであって,決して個別の学習の中でねらえるものではない。これらの価値をもう一度考え直し,一斉授業の見直しを図りたいものである。

4 少人数指導・習熟度別学習への願い

制度として,どうしても少人数指導・習熱度別学習が迫られている現状に対しては,最後に,算数の授業に関わって,これらの学習に対する私の願いを箇条書きにする。

  1. 少人数の学習の方法は,家庭的にして,人前で気軽に素直な発言ができるようにしたい。
    (学級にもどつたら,発言が増えるようにしたいからである。)
  2. 寄せ集めの集団ではなく,指導者はわがクラスといった風土を形成したい。
    (他の集団からやってきたという意識が払拭できなければ,素直な考えは表出しないからである。)
  3. 教師の人間性が生きる指導にしたい。
    (どのグループも同じようにやるのならば,小集団に分ける意味がなくなるからである。)
  4. ハンズオン・マスマティックスが有効に使えるようにしたい。
    (少人数だからこそ,興味ある教具の使用や,具体的な操作活動が頻繁にできるからである。)
  5. 評価に時間のかかる「問題づくり」の活動や「オープンエンド・アプローチ」の活動が頻繁に行われるようにしたい。
    (個々が異なる反応を示すので,評価に時間がかかるものが有効に使えるからである。)
  6. 進んだ子への対応を考えたい。
    (習熱度別の編成では,進んだ子への発展的な扱いが不十分だからである。)
  7. コミュニケーションの仕方を学ばせたい。