今,算数が育てるべき読解力とは何か - イメージ力が支える本当の学力
学校図書株式会社 特集-読解力
「読み取る」とは自分なりのイメージに置き換えること
生活場面や具体的場面をイメージすることなく問題文に向かっている
ある学校での飛び込み授業で子どもたちと次のような問題をした。
男の子が8人遊んでいます。あとから子ともが5人やって来ました。
男の子は何人になったでしょう。
読み終わるとさっさと「8+5=13 答え13人」」と書いて自慢げにすましている子どもがたくさんいる。
しかし,よく読むとあとから来たのは「子ども」とだけ書かれている。だからこれだけでは男の子が何人で女の子が何人かはわからない。
ここでは,子どもたちが「先生,あとから来た子どもって男の子が何人ですか」と尋ねることが必要になるはずだ。しかし,
形骸化した問題ばかりに出会っているとそのような問いを持つ子は少なくなる。
算数の学習では,単元学習が当たり前になっていて,その中では「たし算」のときは「たし算」しかしない。
だから文章をしっかりと読まなくても,たし算の学習のときはたし算しか出てこないのだから,演算決定なんてする必要もない。
さらに一般には文の中には必要な数値しか出てこないから,これも吟味の必要もない。
こうして「読み取らなくてもすむ」算数の学習が低学年から繰り返し展開されてきた。これでは算数授業で読解力なんて育つはずがない。
最近では,読解力というとPISA型読解力の話題でにぎやかだが,算数にはもっと日々の授業の土台のところにこうした問題点がある。
本当に読解力を育てたいのなら,子どもたちがちゃんと問題文を読まないといけないようにする工夫が必要なのである。
表やグラフをたくさん与えてそれを読み解く問題の練習をさせるのも結構だが,これも断片的な訓練に終始して形骸化してしまっては意味がない。
PISAの調査で本当に問題になっているのは,こうした技能ではなく,子どもたちが生活場面や具体的場面をイメージすることなく問題文に
向かっていることである。そのためには,表やグラフを関連させて分析したいと思う彼らの意欲を育てることから始めなくてはならない。
昔から意欲の伴わない活動には成果は期待できないと言われてきたが,それはきれいごとではなく,本当の力としていくための必要な条件なのである。
先の問題文だと,あとからやって来た子どもの状態をイメージしながら「もしも,男の子が1人もいなかったら…」とか
「もしも1人だけが男の子だったら…」と考えて,いろいろな答えを出していくという姿こそ育てたい姿である。
本物の読解力を育てる
似たような問題場面で子どもたちがイメージしないために妙な解答をしてしまうのが,あまりのあるわり算の次のような問題である。
子どもが31人います。7人がけの長いすに座らせたいと思います。
長いすはいくつ必要ですか。
子どもの誤りの例
31÷7=4あまり3
答え 4きゃく あまり 3きゃく
ほかにもただ4きゃくとだけ答える誤答もあるが,いずれの答えも場面をイメージしていないために.起こるものである。
しかし,こうした問題も誤答が多いと分析されると,子どもたちにこういう場合は答えの数に1を足したものを正解にしますと結果だけを
指導してしまう例がある。これではやはり意味がない。
数学者の飯高茂氏(学習院大学)は筑波大学附属小学校が発刊する月刊誌「教育研究」のインタビューの中で,次のようなことを述べている。
「このようなPISAの問題はオランダの数学教育の流れでやられていますからね。私から見れば結構異常な数学教育に思えます。
それに対して日本で試験対策をするというのは無意味だと思います。最初はびっくりする問題だけど,結局,解法のパターンとして
「こういう場合はこうする」ということを覚えることになるだけですから。教師もこの手の問題の解き方を教えることになるだけです。」
氏の危惧は見事に的中し,今や全国でもPISA型のテスト問題に対する対策に余念がない。確かにこうした類の問題こ慣れさせれば
テストの点数はあがるだろう。事実,既にその対策を取っていたフィンランドが今回高得点を取っている。でもだから何だというのだろう。
予備校に行って傾向と対策を練れば,それなりの点数は取れるようになるのは当たり前だ。
それよりもPISAの結果から日本の子どもの何が問題なのかを.それこそ教師や研究者たちがきちんと読み取ることが大切なのではないか。
教育改革を推進していく人たちの「読解力」を育てることがまず必要なのかもしれないと私は思う。