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高村光太郎との出会い

2003.10.18(土) 豊かな詩情と温かい人情に触れた花巻・遠野の旅

週末盛岡で行われた国語教育の研究大会に山梨から訪れた妻の友人Yさんと妻,一番下の娘,そして私の4人で,花巻・遠野の旅に行ってきました。
花巻や遠野の地は何度か訪れていますが,今回の旅は特に印象深い旅になりました。
「人の心」「人の営み」「人の思い」というものはその死とともに消え去るものではなく,地下水のようにしみわたり脈々と息づいていくものだと,旅先でのさまざまな出会いを通して素直に感じることができた旅でした。

澄みきった秋空 仙台から花巻,そして山口の里へ

快晴の宮城の地を6時過ぎに出発。
透明な朝の光に,里山の木々も一層色あざやかに映えていました。
Yさんの宿泊先-花巻・鉛温泉の藤三旅館で待ち合わせ,私たちの旅は8時30分から始まりました。
志度平温泉郷を過ぎ,花巻市街を目指し車を東に向かって走らせていたとき,視界にとび込んできた「高村山荘」の標識。

「高村山荘まで4kmって書いてあるけど,どうする」(妻)
「ちょっと寄って,見るだけ見てみようか」(Yさん)
運転手の私は,
ここで寄ってたら,遠野に着くのが遅くなるよなー。観光客がまだあまりいないうちに回ってしまいたいのに。
まあ,どうせまだ8時半だから,外から見るだけならいいか。しょうがないなー。
高村光太郎に関係があるのは安達太良じゃないの。ここは関係ないんじゃないのかなー。
と心の中でつぶやく。

あわてて車をUターンさせ,田園風景の中を「高村山荘」に向かう。

高村山荘-高村光太郎との出会い

駐車場に車を止め,「高村山荘総合案内所」の小さな建物に歩を進める。まずは,人懐こいネコくんのお出迎え。
まだ8時30分を過ぎたばかりだというのに,中で女性の方が準備している様子。


出迎えのネコくん

「おはようございます」のあいさつを交わし,4人分の入館券を購入。
高村光太郎と「高村山荘」のかかわりをお聞きする。
高村光太郎が太田村山口(現・花巻市)に疎開することになったいきさつや,粗末な山小屋生活の苦労,村人とのかかわりなどを,遠い昔を思い出すように話してくださいました。
村の子どもたちの純朴さを愛し,折に触れ山口小学校を訪れてくれたこと。
授業こそされなかったけれど,学校で行う集まりがある度にお話をしてくださったこと。
その話がまだ小さな子どもには難しかったこと。
学校にいらっしゃるときは,ゆっくり大股で歩かれたこと。
サンタクロースの衣装を着て,子どもたちにプレゼントをくださったこと。
歴史上の人物,書物の中でしか会えないと思っていた人物が,にこやかな笑顔で急に目の前に立ち現れたような,不思議な気持ちになっていました。
それもそのはず,高村光太郎がこの山小屋で暮らしていたちょうど同じ時代に,案内所の方は山口小学校に通われていたのです。

「高村山荘」

山荘の西側に看板があります。その中に高村光太郎の生活ぶりが簡単に紹介されています。


高村山荘
この高村山荘は,彫刻家並に詩人として名高い日本芸術会の巨匠と称されている高村光太郎が,宮沢賢治の縁で花巻に疎開,その晩年七ヶ年を過された由緒あるところで,その住居は鉱山の飯場小屋であった建物を移築したわづか7.5坪(25㎡)の粗末な山小屋で,幾多の困難に打ち耐えながら独居自炊,専ら真と善と美の究明に鉄人の如き生活を続けられた。
昭和27年秋,光太郎は青森県の委嘱を受け十和田湖畔に建立する記念像を制作するため上京し,翌28年この大作を完成して,同31年73歳にて尊い生涯を終わったが,この地を遺跡として永く伝うべく套屋によって建物を保存し,詩碑を建立し,昭和41年光太郎の彫塑,書画,文芸作品,遺品等を収蔵展示する記念館を開設した。
智恵子展望台は光太郎が好んで散策した丘陵で,夜たまたま,この丘に立ち亡き夫人の名を呼びしと里人の言い伝えたことから付けられた。

花巻市

案内所に別れを告げ,やわらかな陽光ふりそそぐ里山の道をしばらく歩くと,やがて右手に「高村山荘」が姿を現します。
高村光太郎が暮らしていたころも,こんなおだやかな風景が見られたのだろうか。そうだといいけど…。


「高村山荘」全景

「高村山荘」-無得殿

雪深い山里で土壁一枚で外界に接し,板の間には地面からの冷気をさえぎる畳さえない山小屋。
4畳ほどの土間(たたき)には,あまりにも粗末な台所。
電気も通らない小屋。採光がないため彫像制作を諦めざるを得なかった。
幾多の困難に打ち耐えながらの独居自炊。
小屋の正面に掲げた「無得殿」の表札は,「所得の無い者の住家」を意味していました。

専ら真と善と美の究明に鉄人の如き生活を貫いた高村光太郎の生き様が胸に迫ってきます。


軒下正面に掲げられた「無得殿」の表札(草野心平書)


「高村山荘」室内

明かり取りの障子に記した日時計。
小屋に東にある厠。大便所の戸に細工した明かりとり「光」。高村光太郎がこの地で残した唯一の彫刻作品と言う。
厳しい自然の中で太陽の恵みに感謝し,光を慈しんだ胸中が痛いほど伝わってきます。


障子を利用した日時計


厠の明かりとり-「光」

高村光太郎と宮沢賢治



高村光太郎(1883-1956)と宮沢賢治(1896-1933)を較べることは適切ではありませんが,宮沢賢治の方がよく知られて親しまれているのではないでしょうか。
しかし,無名の宮沢賢治を高く評価し世に出したのは,高村光太郎なのです。

また,昭和20年空襲で東京のアトリエを失った高村光太郎に,「是非,花巻に疎開なさってください」と申し出たのは,宮沢賢治の父宮沢政次郎と弟の清六,それに花巻病院長の佐藤隆房の3人でした。
当の宮沢賢治は昭和8年9月に亡くなっていますので,高村光太郎と宮沢家は賢治の没後もしっかりつながっていたことになります。

右の写真には次のように書かれています。高村光太郎が山口の地を去る1年前の春,賢治の両親が山荘を訪れていることが分かります。

賢治の両親
宮沢政次郎夫妻の山荘訪問
26.5.8

しかし,宮沢賢治が高村光太郎に直接会って言葉を交わしたのは,わずか1度しかないのだそうです。1925年(大正14年),上京した宮沢賢治が高村光太郎のアトリエを訪ね,玄関先で立ち話をしたのが最初で最後なのだということでした。

詩碑-『雪白く積めり』

雪白く積めり

高村光太郎


雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を發す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと點々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に座す。
風ふきに雪粛々と鳴って梢を渡り
萬境人をして詩を吐かしむ。
早池峰はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の爐邊に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり
美しくしてとらへ難きなり。

地域の人々に今なお愛され続ける高村光太郎

高村記念館を守られているAさんからお話をお聞きすることができました。

Aさんのお宅には草野心平や高村光太郎がよく遊びにきたものだそうです。
お二人ともAさんの家の古漬けを何よりのご馳走と考え,それをおかずに食事をされたそうです。
Aさんは私の身長を尋ねられ,
「高村先生は180cmくらいでね,大きい人でしたよ。それに手足がほんとに大きかった。高村先生は『彫刻をする人は手が大きくなければ』と言っていたものですよ」
と,話してくれました。

高村光太郎は,山口地区の人々に心から愛され慕われていることが,その話しぶりから伝わってきます。

その逆に,高村光太郎も地域の人々を愛してやまなかったことは,地域の人々が力を合せて建てた山口小学校の開校式に参加した折の「お祝いのことば」によく表れています。

お祝いのことば

あのかわいらしい分教場が急に育って
たうたう山口にも小学校ができました。
教室二つの分教場が大講堂にかはり,
別に新しい教室が三つもでき上がりました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて,
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と,
もっと大きい熱意といふものを持ち寄って
この夢の実現を果たしました。
陽春4月の雪解ごろから,
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙しいなかを,
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
いまブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人,
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん,
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知ってゐる人のやうです。
あの製板の機械のうなり,
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてくる槌の音
まるできのふのやうになつかしく耳に残ってゐます。
山口小学校は名実ともに立派にできあがりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知ってゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の寒村にたぎってゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
おめでたうございます。
一歩前進,
いよいよ山口小学校ができました。

『山口と高村光太郎先生』浅沼雅規著/(財)高村記念会発行(p34-p36)

『案内』-智恵子への深く細やかな愛

高村光太郎の詩で知っているものは,中学時代に習った『道程』,そして教員になってから研究授業で触れた『レモン哀歌』のわずか二篇。
『智恵子抄』についても,名前だけ聞き知っているに過ぎません。
しかしこの山荘に移り住んでから書いたと言われる『案内』と言う詩に初めて出会い,私は目を見開かされる思いがしました。

案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝,
いまはキャベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で,
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし,
展望二十里南にひらけて
左が北上山系,
右が奥羽国境山脈,
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突きあたりの辺が
金華山沖ということでしょう。
智恵さん気に入りましたか,好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯(か)ういうところ好きでせう。

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「智恵さん斯(か)ういうところ好きでせう。」
なんと愛情に満ちた豊かな言葉でしょう。