阿部哲男先生を偲んで
2021年10月22日早朝,敬愛する阿部哲男先生がご逝去されました。享年80才(満年齢)でした。
人生の大切な時期に,先生と出会った私たちは,ともに笑い,ともに涙し,ともに胸を熱くしながら,
多くのことを学び,新しい一歩を踏み出す勇気を与えていただきました。
阿部先生は,その大きな瞳と大きな声,そして,深い愛情で,いつも全力でエールを送り続けてくださいました。
全力で走り続けた80年間,本当にお疲れさまでした。
がんという名の病を得てから7年間,とりわけ大腸がんが発見されてからのこの1年と9か月は,先生にとって辛いたたかいの連続でした。
しかし,阿部先生らしく,最後の入院となった9月29日まで「自分のことは自分でやり通す」という,自立した生き方を貫かれました。
阿部哲男先生。お疲れさまでした。そして,ありがとうございました。
これからは,大好きだった奥様との時間を,ゆっくりとお過ごしください。
先生の安らかなご冥福を心からお祈りいたします。 (ページ編集管理:佐藤俊隆)
阿部哲男先生墓地案内図
2021年10月23日,阿部哲男先生のご遺骨は白石市の専念寺の墓苑に納骨されました。
先生に感謝の気持ちをお伝えしご冥福をお祈りされたい方は,専念寺の墓苑にご焼香をお願いいたします。
案内図は 【 阿部哲男先生墓地案内図 】 (pdf)からダウンロードできます。
我らが熱血教師・阿部哲男
初任地の栗駒町立尾松中学校から退職時に勤務した名取市立第一中学校まで,阿部哲男先生が勤務したそれぞれの学校の思い出を,
阿部先生の書き綴った文章と編集者の聴き書きで振り返っていきます。
どうぞご一読ください。
【 我らが熱血教師・阿部哲男 】
実はタブーを承知で,この表題を使いました。
というのも,阿部哲男先生は自分のことを「熱血先生」と言われることを,忌み嫌っていました。
「私の教職人生を,『熱血先生』などという安っぽい言葉で語られるのは,迷惑千万だ」
常々こうおっしゃっていました。
「子どもを自分の思い通りに引き上げてやるなどという思い上がりの気持ちは,露ほどももっていない。
子どもの可能性を信じ,子どもとともに学び,子どもとともに伸びんがために,ほんものの教育を追求し,常に全力投球してきただけだ」
このような阿部先生の気持ちを汲んでもなお,すべての教え子にとって,職場を同じくしたすべての教職員にとって,
やはり ≪ 我らが熱血教師・阿部哲男 ≫ なのだと思っています。
阿部哲男先生からの便り
闘病を続ける先生のお宅に毎日のようにおじゃまし、先生からたくさんお話を聞かせていただきました。
そして2020年4月、先生の79歳の誕生日を機に,それまで頑なに拒んできたパソコンに挑戦し始めました。
それから1年間,自らの人生を振り返りながら,数々のエッセイや随想,評論を書きためてこられました。
それらを整理しながら,少しずつ紹介していきたいと思います。
阿部先生の所感・便りを,新たに3編掲載いたしました。
- 東日本大震災に思う - 2011年5月18日
- コロナ禍のお見舞い - 2020年6月16日
- 寒中見舞い - 2021年2月3日 (絶筆)
- 夢のヨーロッパ旅行
- 沖縄への旅
- リカオンという動物
- 私と女帝
- 旅先での失敗談を三つ
- 戻ってきた財布
- イノダコーヒーのこと
- 世界の美術館
- 磯浜ユースホステルの思い出
- 甲子園中止報道に思う
- 陸上トラックはなぜ時計回りではないのか
- 庭に咲くしゃくなげの思い出
- 私は高所恐怖症
- 私はいつも不審者
- 甘いお菓子について
- 銭湯は楽し
- 読書と私
- 「子どもの日」に寄せる
- 子供のころの遊び
- 不登校問題試論
- 中学教員の給料を小学校の1.5倍にせよ
東日本大震災に思う - 2011年5月18日
平成20年9月に名取市の教育長職を辞して以来、阿部先生は、月日を経るに連れて、脚の不調からくる運動不足とそれに起因(?)する体重増に悩まされていました。
生来の瞬発力と持続力、そして、強靭な体力にかげりが見え始めていました。
そのさ中に起こった東日本大震災。
本来なら、真っ先に現地に駆け付け、復旧・復興の陣頭指揮を執るはずの阿部先生ですが、それがかなわなかった悔しさと情けなさに沈んでいました。
そんな時に、御自身の思いを整理すべく認め、友人・知人への詫び状として送るべく、 清書して印刷してほしいと依頼されたのが、この「東日本大震災に思う」の書簡です。
東日本大震災に思う
早や暦は立夏を過ぎております。その後,いかがお過ごしでしょうか。
3月11日(金)午後2時46分,突如ものすごい地鳴り。数秒後,これまで経験のない巨大な揺れ。
とてつもない横揺れと聴いたことのない異様な音響(天井,壁,床,ガラス戸,家具,本棚のきしみ。食器,本等の飛び散るゴチャマゼの音)が轟きました。
震動は2分間と言われていますが,私は6分と今でも思っています。何故か立ったまま,直近の本棚を右手で支え,左手でテレビを押さえていました。身体が固まってしまい,身動きできませんでした。
揺れと轟きの中で「家が崩れる」,そして,「多分終わりだろう」と死を覚悟した瞬間でもありました。
テレビが2時52分で消え,停電。以後,昼夜を問わず,大型余震の繰り返し,身体全体(リスク感覚反応レベル10に達し)が敏感に反応し,何日かは一睡もできず(どなたも同じだったでしょう)。
その後,12日,どういう訳か水道が復帰。電気とガス(都市ガス)はストップ。電話も携帯もダメ。誰とも連絡不能。ろうそくと1個の懐中電灯。
唯一の情報源は乾電池ラジオのみ(余震の恐怖で,何を聴いたか全く記憶にないのです)。
3月15日,夕方5時頃,電気が来ました(思わず,アリガトウと言っていました)。初めてテレビを通して,地元の壊滅的情況を知るところとなります。
都市ガスは4月1日(金)12:00AMに千葉県のスタッフの方々で復活。深々と感謝。やっと,念願の入浴。
情報が入るようになり,地元の様子も次第に明らか。名取・閖上崩壊の大津波映像に息をのむ。岩手,宮城,福島三県の海岸地帯の壊滅的情況を知り,言葉を失う。
やがて,ガソリンが入るようになり,閖上から玉浦,亘理荒浜,吉田,山元町をめぐり,さらに,石巻,東松島,野蒜,塩竈,多賀城,仙台荒浜と,瓦礫の平野をさまよいました。
まさに生き地獄(戦災にあった昭和20年3月の仙台のよう)であり,天変地異の凄さ。土地勘があったはずの自分が,今どこにいるのか,茫然自失,思考停止状態に陥ったようです。
私は教員生活のおよそ1/3を,海辺,岬,離島で過ごしました。そのほとんどが大津波で消えていったこと。家屋を流された方が相当数に上ること。そして,かつて親交を深めた知人,友人,生徒の何人かが,帰らぬ人となったことは,あまりにも不条理で,心が凍りつくような心境です。喪失感と寂寞感とが心を支配し,今でも,私の心を痛めつけています。
避難所生活を強いられる方々も多く,見舞う度に耳にする「あの日,あの時」と九死に一生を得た生還の事実と間一髪で命拾いした「お話」はあまりにも生々しく,言葉もありません。それぞれの方々への自分の無力感が蓄積されていきます。帰宅する車の中で,何か無性に腹が立ち,一人で叫んでいます。
以下,わたしの独り言です。
人間が考えたり,作りだす万般(科学,技術,法律,制度,社会のしくみ,文明,等々)については,「完全」とか「絶対」ということはありえない,ということです。それを言った途端に「傲慢」になってしまうのでは。やっぱり我々人間は,自然界のほんの一部の存在である,という認識(謙虚さ)が枢要であると思われます。
「想定外」という言葉も流行になりつつあります。学者や専門家と言われる方々には,便利で都合のいい言葉ですが,「想定外」自体,人間の傲慢さそのものであり,その象徴的所産の一つが原子力発電なのでしょう。廃炉にしたところで,燃料棒なる化け物は2万4千年も生き続けることを知って,呆然とし,自分の無学を恥じています。福島県が旧ソ連のチェルノブイリ化,合衆国ペンシルバニア州のスリーマイル島化にならぬよう,祈るのみ。
「がんばろう,日本」「日本は強い国」「日本人はみんな一緒」等の民放TVコマーシャルと,横看,たて看が目立ちます。コマーシャルには辟易し,うんざりです。一見,優しそうに語りかけてくるフレーズと映像は,ちょっと巧みです。メッセージを垂れ流しているメディアに「ある種の翼賛的」な怖さを感じるのです。
もう一つ気になること。スポーツ選手や若いタレント等が「…元気と勇気を与えることができれば…」とくる。何をお前らに「~を与える」と言われたくありません。少しでも「伝えられれば」とか「届けられれば」というべきです。何様になったつもりなのか。周りにチェックする人も知性もなく放映されているのです。毎日,艱難辛苦に耐え,これ以上頑張れない被災者に失礼です。
頑張っていると言えば,公務員です。自衛隊,消防,警察,医療関係者,県・市町村職員,教員です。公務(使命)とは言え,昼夜を問わず,寝食も無いに等しく,人の限界をはるかに超える働きに,健康を案じています。しかも,その活躍こそが今日の東日本を根底で支えていると確信します。ただ,自衛隊員や車両が街中を縦横無尽に走り回り,こんなに日常的風景として違和感なく受け入れられているのは,とても異常であり,不思議な世界です。
いつもながら,命がけで頑張って欲しい方々は外野で騒いでいます。政治家,霞ヶ関,評論家,マスコミ関係者の多くの人には,無償ボランティアの爪の垢でも煎じて飲ませたい。彼らには一身を捨てること,生命をかけること,被災者への想像力等,著しく欠落していると感じています(一部,立派な人もいますが)。
支援・復旧・復興に向けて欲しいのは,その任に当たる者の資質と熱意(情熱)です。
一つには,豊かな想像力(共感できる力),二つには,構想力,三つ目は,判断力,指導力,そして,実践力。どれか一つでもあればいいのですが。そして,最後は,財力(お金)と永続的被災者支援です。
被災者の深い喪失感や絶望感が当事者意識の少ない人々には判られていません。もしかすると,被災の悲しみや辛さは分け持つことができないのかも知れません(県内でも津波の有無で温度差が大きい)。
被災者にとって,今一番欲しいのは,今日明日を生きるお金であり,3ヶ月後,6ヶ月後も生きられる光が見えること。生きていく糧になる力強い支援と施策が急がれます(国と地方自治体はしっかりやれ)。
温度差と言えば,東京やその周辺での買い占め。話にならない。何をお前達は考えているのか。二ヶ月も過ぎると,関西や九州,四国でどこ吹く風というように生活している人がほとんどというのも,仕方がないのだろうか(辛さと悲しみは共有しないと,想像できないのかも知れない)。
そして,もう一つ,NHKが震災から何日目かで毎日の番組,特にニュースが福島原発にシフトチェンジしたこと。この時点で宮城と岩手の被災者の放映時間が半減したような気がしています(ただし,私の記憶も定かではない)。私としては,これで宮城と岩手は忘れられると思いました。東京に被害が及ぶことに(原発事故という最重要課題だから分かるのだが),NHKはじめ政府が躍起となった証左であり,岩手も宮城も福島の震災も本当は痛くもかゆくもないのでは,と私は本気で思いました。
ついでにもう一つ,教育について。
◎ 解答を見てしまった小・中・高生に。
私たちはおよそ80年を生きます。そして,折に触れ,考えます。
自分は何者なのか。人間とは。男とは。女とは。人生とは何ぞや。家族とはどうあるべきか。社会のあるべき姿,世の中(国家)はどうあるべきか。文明とは。そして,「死ぬ」ってどういうこと。信仰,宗教。助け合い。愛。自然と人間。幸せって。
程度と密度の差こそあれ,人は死ぬまでいろいろ考え,何か確かなものを求め続けますネ。答えが万分の1でも判って,この世を去る人。恐らく判らないままGoodbyeする人が多いのでしょうか。
この大震災で2分間~6分間の恐怖の世界で,子どもたちは,いや,その後の大津波で知ってしまったのです。あるいは,あの瓦礫の山々が連なる避難所の共同生活で学んでしまっています。
マグニチュード9の恐怖感。瞬時に奪われていく生命。何十年も何百年も人が積み上げてきた所産の崩壊(インフラストラクチャーやライフラインの壊滅),人々の助け合い,ボランティア支援の有り難さ,被災しない者との温度差,大人たちの振る舞い。いざという時の人間の凄さと醜さ,等々。
そういう極限の時を,子ども達は観てしまいました。知ってしまったのです。私のような平凡な人間が70年かけても判らないものを。
そのような子どもに教育はどう向き合うのか。
5月5日の朝日新聞社説は「守ってあげたい」というタイトルで,「危機回避法,情報判断,自分の役割,そして,『生きる力』」と言っています。
私は,安易で短絡的過ぎると思っています。
「生きる力」等は,抽象的でとても便利な言葉です。しかし,いったい何なの,それ。生きる力があればこそ,生き残ったのではないか。被災した子もそうでない子も,あのマグニチュード9の恐怖,身内を失ったこころ,家屋を流された喪失感,茫然自失の中で,今もなお見えない敵(放射線)と戦っている子ども達に,「生きる力」等と訳のわからぬ漠とした表現では,子どもを守ることはできません。
地球は生きている。その地球(自然)との付き合い方,つまり,共生(共存)するための知性(知恵)を磨かねばならない。自然を抑えるとか,自然を超えるとか,克服する等の科学(文明)の構築であってはならないのです。
自然への畏怖の念(畏敬の念)を抱くことを伝えたい。
わたしたち日本人はおよそ1万年,ありは2万年もの間,自然の猛威(地震,津波,台風,洪水,冷害,干ばつ等)にさらされ,ひれ伏し,最後に生き残った者は「仕方がない」「誰にもかかれない」「あきらめる」諦観思想を生んだ,と私は思っています。そのあきらめ感は,われわれの細胞や血液の中に脈々として受けつがれ,今や遺伝子(DNA)となって刷り込まれていると考えます。今回,日本人が略奪や暴動めいたことを行わなかったことを,海外では「日本人の高い道徳性」とか「我慢強く,凄い品性」等と絶賛し,伝えられているようですが,日本人の間では,そのことをとりたてて話題にする人も無く,そうすることは当たり前のことなのです。
結局,子どもを守っていくには,
1.子どもたちに残した深い傷にどう向き合うのか。
2.自然と共存する科学(文明)をどう構築するのか。
3.努力すること,継続することの大切さをどう伝えるのか。
4.前へ進むとは,どういうことか。
5.希望とか,未来をどう描くのか。
等々が,今,教育,なかんずく義務教育の場に求められているのではないでしょうか。
人生の崖っぷちに立たされた人(生き地獄を体験してしまった子どもたち)に,ものを教え,導くことの至難さを思うのです。
電話や携帯,はては,メールまで届かず,皆様には大変な心配をいただきました。
被害の情況はほとんど同じなのに,温かいお声がけや励ましをいただき,心から感謝しております。ありがとうございました。
3月11日から,私はやや喪に服している部分があり,私なりの心の整理をするために,思いを綴らせていただきました。
ほとんど,私の慷慨の一部です。
たいへん失礼しました。
コロナ禍のお見舞い - 2020年6月16日
この度の、新型コロナウイルス問題が、日本のみならず、世界規模の大災難に拡大することが予想だにできず、そのうち収束してくれるものと高を括っていました。
しかし1、2か月過ぎるうちに、ウイルスは猛威を振るい、静かに、しかも鋭く、人間世界に侵入してきたのです。感染者も死者も想像をはるかに超えています。基礎疾患(糖尿病、高血圧等)を抱えている人、そしてがん患者については、特段の警戒をするよう、メディアが何度も呼び掛けています。
このような非常事態の状況下にあって、最悪にも、私自身が「非常事態」に至ってしまったことです。実は、1月中旬に、「大腸がん(末期)」と告知され、余命まで言及されました。ショックでした。
今、何度目かの「抗がん剤」投与の渦中にあり,小康にあると、自己診断しているところです。「かぜ」を引いたり、「コロナ」に万が一感染すれば、一発アウトのようです。
風前の灯のようにもなってしまった「わが命」ですので、ちょっと考えてしまいます。
私は心身共に健康にめぐまれ、仕事に全力投球できたことが、なによりも幸せなことでした。
健康であればこそ、超えることができたこと、達成感や成就感を持てたことは幾度もありました。屈強に見える私ですが、何年かに一度、大怪我をしたり,大病に見舞われることもありました。その都度、どなたかに救われました。
人生、最大のピンチは、最強のパートナー、「妻、淑子」を失った時です。
どん底の時こそ最大のサポートを皆様から頂きました。心温まる支援を継続的に賜ったのです。
私の安否を心配した方々が『ボランティア』をかって出てくれたのです。皆さん、何十年か前の「教え子」の方々です。
皆さんは、我が家の「鍵」を持ち、自由に出入りができるようにしたのです。10個以上の「合い鍵」を作ったことを、覚えています。
今、改めて「敬意」と「感謝」の心でいっぱいです。「本当にありがとうございました」。
いままで、生きてこられたのは、あの時の、あなた方の温かい支援があったからなのです。
10年前の東日本大震災の後は、もう何もないだろうと思った途端に、新型コロナウイルスという強敵が出現。
一部の専門の学者以外は、誰も,その全容とか、感染防止の手立てとか、ワクチン開発に至るまで、何もわからないようです。
多くのカタカナ文字が飛び交っています。「三密」とか、「自粛」とか、「テレワーク」とか、耳慣れしない言葉も、定着しつつあるようです。
近所の犬や猫は元気に生きています。雀も鳩も元気。庭のサツキも花を咲かせました。
そして、我が家の大切な樹「ゆずりは」は今、世代交代の時期を迎えて、必死に生き新しい葉を繁らせています。
「いのち」を次の世代につなぐまでは朽ちることはないのです。
命の連鎖は、永遠に続きます。
「コロナ」は侮れる相手ではなさそうです。
人間世界の分断を図っている史上最強のウイルスです。
療養中ですが、ベストを尽くして私も頑張ります。
どうぞ皆さんも、「ゆずりは」の逞しさに倣って、あなたに贈られた至福の時間のために、最善を尽くせますよう祈っております。
I will see you again.
寒中見舞い - 2021年2月3日 (絶筆)
寒中お見舞い申し上げます
大変長きにわたりご無沙汰しております。
賀状を頂きながら、お返事も返さず失礼を致しました。
実は、昨年一月中旬、突然腹痛を覚え、痛み収まらず、胃腸科で診断を受けたところ大腸付近に問題がありそうだ、とのことで即入院。一月下旬から三月末までセンターに入院。「横行結腸がん末期」と診断、即手術でした
が、「がん」の他臓器への浸潤が激しく、取り除くことが不能となり、バイパス手術に変更し、その後「ポート」使用の抗がん剤等で治療を続けて、現在に至っています。昨年9月まで、4度の入退院を繰り返し、「命」を長らえています。一年にも及ぶ闘病生活に疲れ、今、我が家で自由を貪っています。遥かに余命を超えています。
コロナ禍にあって感染もせず生きていることが、奇跡的と思え、森羅万象に感謝しつつ、一日一日を大事に生きています。
皆さまには、かけがえのないご厚情と温かい支援を賜り、心より感謝しております。コロナウイルスの最短の退場を願い、皆様に「本当の春」が、より多くの幸せが届きますようにと祈っております。
ありがとうございました。お達者で。
夢のヨーロッパ旅行
阿部先生は,2校目に勤めた浦戸中学校で,憧れのヨーロッパ旅行に出発しました。
文中で「相棒」と表現されているのは,同期の親友でライバルでもあった高校社会科教師の八巻先生です。
その旅行の訪問先も中身も驚きなのですが,それ以上に圧倒されるのはその日程です。
およそ「非常識」と言っても言い過ぎでないほどの破天荒さです。
皆さんも,その日程を聞けば,唖然呆然,言葉を失うに違いありません。
阿部先生の文章から推測した最短の日程は,次のとおりです。
昭和45年7月9日から昭和45年8月31日までの54日間。
教師になって5年目の若手教員が,1学期の終業式も,2学期の始業式もすっとばして,ヨーロッパ旅行に出掛けることを, 当時の塩竈市教育員会と宮城県教育委員会がよく認めたものだと思います。
恐らく,「なんとしても行くのだ」という阿部先生の執念に,驚き呆れ,サジを投げたというのが真相だったのではないか,と思っています。
阿部先生が書き残した旅の思い出は,全部で5話あります。
■ 横浜からソ連へ (ヨーロッパの旅 第1話)
昭和45年(1970年),少年のころからの夢であったヨーロッパへの旅を強行した。
およそ2か月にも及ぶヨーロッパ旅行の計画を見て,県教委は強く反対した。反対の理由は二つ。
第一は,前例がないこと。
第二は,年休を超える部分は,「海外派遣扱い」も「海外出張扱い」もできないとのこと。つまり,欠勤として扱う以外にないこと。
計画の実行は,前途多難であった。それでも,私は粘りに粘り,ヨーロッパ旅行をしぶしぶ認めさせた。
ポンユウの八巻さんと巡る「欧州弥次喜多道中」であった。
7月10日,私たち二人は横浜港からソ連のナホトカに向けて出航した。
ソ連からヨーロッパ各地を巡り,1970年8月30日に万博に沸く大阪に帰国する,50日を超えるヨーロッパ旅行の始まりであった。
横浜からナホトカに向かう船は,5000tクラスのバイカル号という名の客船だった。
梅雨明けのまぶしい陽射しが照りつける三陸沿岸を北上し,津軽海峡を横切って,日本海へ向かうルートを航行した。
まる2日にわたる船旅でナホトカへ到着。さらに,16時間列車に揺られ,ウラジオストックへ。
私にとって,初めての外国,中学生の頃からの夢が現実となったのである。
相当な高揚感とともに,当時のソ連の子どもたちの印象的な姿,振る舞いを忘れることができない。
彼らにとって,私たちは外国人である。国交回復は未だ実現されていなかったものの,少しだけ門戸が開かれたのである。
1ドル=360円の時代である。
その当時のソ連は,マルクス,レーニンの時代。
ソ連の子どもたちは,私たちが外国人と見ると,一斉に群がって来て,「レーニンバッチ,1ルーブル」と口々に叫び,金をねだるのだった。
ナホトカでも,ウラジオストックでも,同じ光景が展開された。
これは「いつかみた光景」でもあり,20年ほど前の,日本における「わが姿」でもあった。
物や金を人にねだるという行為はしたくもないし,させたくも,見たくもないものだ。
もう一つ,強烈な思い出は,ソ連国内の当時の賃金格差である。
「首相は,俺たちの給料の4倍の給料をもらっている」
と汽車の車掌が言い,乗客が皆うなずいていたことを覚えている。
真偽のほどは確かめなかったのだが,賃金の格差がわずか4倍であることに,「凄い!」とただただ感心した。
その後50年,賃金格差は1000倍にも膨れ上がり,一部の官僚のみが潤う「社会主義国家」となり,1991年にソ連は崩壊するに至った。
1989年のベルリンの壁瓦解から間もなくのことであった。
その出来事は,社会主義社会を「経済的平等が具現化された形」として「理想」や「憧れ」を抱いていた
日本の若者や世界中の人々の「夢」を,無情にも打ち砕いたのである。
自分が生きている間に,「ソ連邦の崩壊」が起こるとは,夢にも思わなかった。
その世界史的出来事が,現実として目の前で「起こる」ということは,衝撃的であり,
その後の私の考え方や生き方に少なからぬ影響を与えた。
■ ロケットよりセイコー (ヨーロッパの旅 第2話)
これも,モスクワでのこと。
「赤の広場」からやや離れた路地で,私は呼び止められ,さらに,路地の奥の方に連れて行かれた。
5,6人の男たちに取り囲まれた。私より20cmも30cmも大きい連中である。
とっさに,恐喝されたり,場合によっては,多少の暴力もあるかもしれないと,身構えた。
そのとき,である。
彼らは,一様にニコニコしながら,わたしの腕時計を指さし「セイコー」「セイコー」と叫んだ。
拍子抜けするほどの微笑外交だった。私はホッとし,体の力を抜いた。
残念ながら,その時私がかけていたのは1万円の「シチズン」だった。
「とにかく『セイコー』の時計を売ってくれ,値段はいくらでもいい」,というのが彼らの要求だった。
これも後で分かることになるのだが,ソ連邦にいる間は,何度も「セイコー」「シチズン」の時計を売ってくれ,と声を掛けられた。
社会主義下の計画経済であるため,例えば時計について言えば「ロケット」というブランドしかなく,
彼らにとって,スイスや日本の時計は憧れの対象となっていたようだ。
当時のソ連の人たちは,さほど粗暴だったり乱暴な振る舞いをすることはなく,比較的穏やかだった。
ある程度経済的平等が担保され,格差がさほど目立たない時代だったせいか,国民の間にはまだ寛容さがあり,
政治や経済,文化に対する不平不満も少なかった,と思われる。
それから20年の時を経た1990年,貧富の格差は900倍,いや1000倍にも拡がったと言われ,その厳然たる事実が,
社会主義を目指す世界の人々の希望の光を奪ってしまった。
(2020年4月24日)
■ モスクワのトイレのお話 (ヨーロッパの旅 第3話)
モスクワでの笑い話を一つ。
モスクワでの宿泊先は,当時ソ連随一の高層ホテル,インツーリスト。
19階建ての14階のスイートルームに似た豪華な部屋。
ソ連は明らかに見栄を張っていた。部屋は大理石がふんだんに使われ,2人の宿泊に対して,ベッドルームが4つもあった。
そんな部屋を予約した覚えもない。
横浜を出港して以来始まった洋式の生活。生まれて初めての洋式トイレ。
加えて,朝から晩まで続くバタ臭い洋食(慣れないスモークサーモンなど)などが災いしたのか,深刻な便秘状態に陥った。
もちろん,緊張感もあった。
モスクワのホテルで,無理やり踏ん張り,出血しながら少しだけ便を出した。
私にとって,痔の出血は重大で珍しいこと。
痔にばい菌が入らぬように,荒療治を断行した。浴室の浴槽に熱湯をいっぱいに張り,出たり入ったりを繰り返して,患部を消毒した。
熱湯消毒である。医療知識のまったくない素人の浅知恵。
うだるような暑さの中で何度も繰り返したので,喉が渇き,水をたらふく飲んだ。
しばらくして,洋式トイレのすぐそばに,便器とも違う卵型をした形の小さい噴水のようなものを発見。
それが,通称「ビデ」ということも知らずに,蛇口をひねると温水が出たので,夢中でごくごく飲んだ。
しかしである。水そのものが,日本の軟水と違っている。たちまち激しい便意が襲ってきた。1週間分のものがすべて出た感じがした。
そして,患部の方はオロナイン軟膏を塗っておしまい。なんとも強引な一件落着であった。
それまでの生活の中で,洋式トイレとか洋式浴槽,そして,ビデなども見たことがなく,何にどう使うかなど,知る由もなかったである。
※ それ以来,私の痔は時々調子を崩し,ストライキを起こした。
現役を引退した平成15年ごろ,大学病院近くの菊田病院で手術を行い,事なきを得た。
■ パリ迷子事件 (ヨーロッパの旅 第4話)
50年前,海外初デビューの巴里でのこと。
その日は土曜日。夕刻,憧れの地・巴里に着いた。
街はずれの4,5階建ての古いホテルが,今夜の宿。
気もそぞろに宿のつっかけを借り,相棒と一緒に黄昏の巴里の街に飛び出した。
古い商店街,時折,通りすがりの店を冷やかしながら歩く夕間暮れ。
ポンピドー広場まで20分。そこからは,あの「シャンゼリイゼイ」。
「枯れ葉」の歌を口ずさみながら,シャンゼリイゼイの人になり,ゆっくり凱旋門へと向かった。
相棒と一緒にホテルを出たものの,たまには,一人になりたいもの。シャンゼリイゼイを歩くうちに,いつの間にか離れ離れになっていた。
さて,ここからが,この物語の始まり。
凱旋門についた私は,あることに気づいた。凱旋門に向かって道路が5本も6本も集まっていること。つまり放射状になっているのだ。
いま思えば,ちゃんと学習しておくべきだった。加えて,その形がいくつもいくつも連なっている。
私はもと来た道を戻ったつもりでいたのだが,通りを一つ間違えたようだ。いくら探してもホテルへの道が見つからない。
探し始めて,すでに1時間経過していた。
困ったことに,ホテルの名前も,住所も覚えていないのである。毎日毎日ホテルが変わるので覚えきれない。
かろうじて最初の文字が「A」で始まることを記憶していただけ。
ホテルのアドレスカードもなく,財布もパスポートもホテルに置いたまま。
いよいよ,夜10時ごろから明朝5時までの物語の始まりである。
私は土地勘はいい方だと自負している。しかし,パリの東西南北は,今夕着いたばかりなので不案内だ。地図も見ていない。
それでも,「勘」を頼りに,1時間ほど彷徨った。ホテルは見つからない。
事の重大性に気付き始めたころ,人通りの少ない通りを楽しそうに歩く,40代前半のカップルを見つけ,声をかけた。
運のいいことに,私以上に英語が流暢で助かった。
以後の話は,全て英語である。
優しく,知的な夫婦であった。歩きながら三人でしゃべった。最近の日本のこと,フランスの事情などなど。
特に,70年安保を巡り,学生たちが盛んにデモを行うなど,活発に行動していることなど,当時の日本の政情について話をした。
なぜか,長髪が流行していることも,共通の話題だった。
「ところで,あなたは,なぜ,パリにいるの」
「どんな事情で,こんな事態に陥ってしまったのか」
の質問。
パリに着いたばかりであること。相棒と離れ,迷子同然であること。
記憶にあるのは「ホテルの名前が『A』で始まることだけ」であることなど,かいつまんで話した。
そのことを知った二人は,大いに笑った。
二人は,「最寄りの電話ボックスまで行って,『A』の欄を徹底して調べよう」とアドバイスしてくれた。
10分ぐらい「A」の欄をチェックしたが,だめだった。
二人はその後も1時間以上,その界隈を一緒に歩き,ホテルを探してくれた。
夜中の12時を過ぎ,1時頃になって,男性の方が指を鳴らして言った。
「最後の切り札,いいところに行こう」と。
案内されたのは,「パリ警視庁」である。
彼らは,
「私の身分,国籍,旅行者で,今日着いたばかり」などの事情を告げ,
「大丈夫,安心しなさい。きっと警察が探してくれるから」
と言って,去っていった。
とても親切な温かい夫婦であった。
2時間近く待たせられた。
今さらジタバタしても仕方がない。ここは「パリ警視庁」に頼るしかない。
私の腹は決まった。出されるままに,3杯もの濃いめのコーヒーをご馳走になった。
途中,私の周りに当直の警官や刑事が寄ってきて,「何やら,日本人の教師が迷子になったらしい」と話をしていることが,
なんとなく分かった。
時刻は3時を過ぎた。どうやら,英語を話せる警官を探していたらしい。
やっと一人の刑事が入ってきて,私を促し,取り調べが始まった。
国籍は? --- 日本です。
名前と年齢は? --- 29歳,阿部哲男。
パリ,訪問の目的は? --- サイトスィーイング。
職業は? --- 言いたくない。これを言うとみんな笑うから。
言って下さい。困ります。笑いません。 --- 教師です。
中学校ですか? --- 中学校で社会科を教えています。
彼はにっこりして,大部屋にいたみんなに向かって言った。
「この男は,日本人で,教師をしており,専門は社会科だと言っているぞ」
15,6人いたパリ警視庁のフロアに,時ならぬ大爆笑が湧き起こった。
私は,情けない主役で,恥さらしのピエロだった。
が,厳しい夜勤の現場に,そのときだけ「あったかい空気」が漂い,緊張が緩んだことを,嬉しく思った。
勿論,彼の英語は流暢で,ここから本格的な調べに入った。
ホテルを出て,見た建物で印象に残っているものは?
--- 大きな建造物で,ギリシャやローマによく見られるような,割合大きくて優雅な建物です。
そのような建物は,結構あるんだよね。その他,立ち寄った店があれば,言ってくれませんか?
--- ??????。。。。。。
どんな事でも,どんな小さな事でも,言ってくれると,見つかるのが早いんだが……。思い出して言ってよ。
--- 私は,しばらく黙って考えていた。
この会話は,英語でなされたので,私はやり取りや内容を,ほぼ覚えているのだ。
一つだけ話すことを躊躇って言わなかったことがあった。
その当時,日本人としては,なかなか入れない店があった。つまりヌード写真の店である。
「日本人が,しかも,日本人の教師が,はるばる花の都巴里にやってきて,恥も外聞もなく,そんな店に入っているのか」
と思われたくなかったのである。
私の小さなプライドである。
私は観念して,恥と知りながら,話し始めた。
「実は入った店がある」
たまたま同年齢ということもあり,刑事も親近感を感じたたようだ。
私が「そのような類いの店」といった途端,「ホテルの場所の見当がついたよ」と言い,ニヤッと笑った。もう時計は4時をまわっていた。
40歳代の刑事,50歳を越えたと思われる刑事,そして,担当した英語の話せる刑事の3人で,私を助手席に乗せ,車はパリ警視庁を出た。
4時40分頃,「マドレイヌ」前に通りかかった。たしかに見覚えのある優雅な建築物である。
刑事たちはそこに車を停め,降りて探すように,私を促した。マドレイヌを中心に,右に左に行きつ戻りつ,約5分。
そして,とうとう「アルブロウ」を発見。ホテル・アルブロウは,少し古びた4階建てのビルであった。
50歳過ぎの刑事らしい刑事が,たどたどしい英語で,私に言った。
「巴里は大都会だ。ホテルを出るときは,必ず『アドレスカード』を携行すること。
日本の旅人よ,巴里を大いに楽しんで。それでは,いい旅を」と。
5時前,黎明の巴里。
一人の刑事がホテルのブザーを押した。
睡眠を妨げられたホテルの主人が,物凄い声で喚きながら,2階からフロントに降りてきた。
刑事3人は,自分たちの姿をホテル側には見せず,黙って立ち去った。
ホテルの主人は,私に向かって,「いいことをしてきたのだろう」とののしり,文句をいった。
私は,3人の刑事の振る舞いに感心し,そのスマートさと垢抜けした粋さに,酔い痴れていた。
■ ムーランルージュ (ヨーロッパの旅 第5話)
ムーランルージュ。
一晩で約2万円。いわゆる,ナイトショーである。
夜9時頃,開演。
それぞれの客席には,ぶっかき氷が詰まったブリキのバケツが置かれていて,キンキンに冷えた白ワインのボトルが入っている。
突然,舞台が暗転。
正面のスクリーンに映写機の映像が照射された。
はじめに,世界のトピックニュースが映り,その後,ソニーの工場の広場で社員や工員が整然とラジオ体操に励む様子が,大写しにされる。
次いで,エッフェル塔,モンマルトルの丘,ムーランルージュの全景が,次々映し出される。
場面は一転,劇場内に切り替わる。
緞帳が上がり,ステージ上で所狭しと踊る踊り子たちのラインダンスが,スクリーンいっぱいに広がる。
その時である。
客席後方の開け放した扉から,たった今スクリーンに映っていたはずの踊り子たちが,本物の踊り子たちが,歓声をあげながら一斉に舞台に駆け上がった。
一糸乱れぬラインダンスが始まりである。
この演出にあっけにとられ,私はただただ茫然としていた。
観客をアッと言わせる,度肝を抜く演出。
この手法が,教育現場,とりわけ「特別活動」での,私の基本的な価値基準となった。
さて,ショーは,手品のようなもの,奇術めいたもの,さまざまなダンス,そして,イルカの入った水中ショーなど,
観客を飽きさせないショーの数々が,朝方3時過ぎまで続いた。
4時頃,客全員を大型バスに乗せて,それぞれのホテルに送っていくのだ。
入場料は,2万円ぐらいだったと記憶している。
松竹歌劇団や宝塚は,ムーランルージュに学んだに違いない。
沖縄への旅
■ 福島への思い
10年前に起こった東日本大震災時に,福島県の浜通りの東京電力福島第一原子力発電所で起こった大爆発・メルトダウンは,
完璧に「人災」であると私は思っています。
何年も前から,社内で入念に調査研究を行い,
「津波の高さが15mを超えれば,津波は原子炉内に侵入し,制御不能となった原子炉が水素爆発に至る」
という論文が提出されていたのです。
にもかかわらず,上の方(役員)の間で検討されることはありませんでした。
大震災に続いて押し寄せた津波で,「想定内」の最悪の事態,水素爆発が3度も起こり,
何日か後に私たちもテレビの画面を通して地獄のような場面を目の当たりにすることになりました。
結果的に,政府も東電も責任をとらず,未だに「想定外」という言葉で逃げまくっているのです。
何度も言います。あれは「想定内」のできごとです。
放射能から逃れるため,今でも2万人を超す福島県民が全国に散り,身を隠しています。
彼らの大半はもう戻らないでしょう。戻りたくても戻れないと言うべきかも知れません。
あれからもう10年の月日が経つのですから。
福島の人々は頑張っています。
災害から,放射能から,「自由」になりたいと願っています。
未来を見据えて,元気に生きていきたいと願っています。
「フクシマ」=「放射能に汚染されたところ」という図式を忘れてほしいと願っています。
同時に,
「水素爆発があった事実」を絶対忘れないでほしい,
福島の人たちの努力を無にする方策・施策をとらないでほしい,
「風評被害」なる安直な言葉で,事の本質を塗りつぶさないでほしい,
と,心から願っているのです。
福島は「第二の沖縄」になっています。
■ 沖縄とヤマト
多くの日本人は「沖縄」のことを本気で考えているでしょうか。
75年前に唯一沖縄だけが,米軍と日本軍との間で戦われた壮絶な地上戦の戦場となり,どれほどの沖縄県民が尊い命を奪われたのでしょうか。
日本国内にある米軍基地のおよそ75%が沖縄に集中していることを,どれほどの本土の人が知っているのでしょうか。
日米安保条約の下で,沖縄に米国の海兵隊が25000人も駐留し,その滞在費のどれだけを国民の税金からまかなっているか,日本人は知っているのでしょうか。
沖縄の多大な犠牲の上に,日本の平和が担保されていることを,日本人は考えたことがあるでしょうか。
普天間基地の「返還」と辺野古の埋め立てを,県民の多くが反対しています。
しかし,日本人の多くは,知らないふりなのです。
私たちは「沖縄県」とは言っているものの,沖縄の人たちは「日本」を本土と呼びながら,同じ国と思ってはいないのではないか,
と思っています。
沖縄の人たちの多くは,日本を「ヤマト」と呼び,自分たちを「ウチナー」(琉球人)と,本音で思っているのでは,と考える時があります。
自立できるのなら「琉球王国」に戻れた方が,沖縄の人たちにとって良いことなのではないか,と本気で考えることもあります。
■ 沖縄への旅
6年前の初秋,1度も足を踏み入れたことのない沖縄の地に,73歳にして初めて立ちました。
歴史を学び,当地を知れば知るほど,心の中にもやもやが生まれ,沖縄への距離が遠のいていました。
本土の人々が,海水浴やスキューバ・ダイビング,そして,癒しを求めて,かの地へ行けば行くほど,
私のへそ曲がりの心は沖縄から遠のいていたのです。
意を決して訪れた沖縄。
初日に向かったのは,沖縄の象徴となっている首里城。
9月の首里城は,朱色が少し陰を宿して黒ずんでいましたが,その堂々たる佇まいは,圧倒的な存在感を放っていました。
ヤマトには見られない美しさがあり,威容に満ちていました。時代劇のロケ地としてよく使われる「お庭」に立ち,
360度のパノラマをしばし楽しみました。
やはりこの建物は日本にはなく琉球王国ならではの建物であることを確信しました。
2年前になるでしょうか,沖縄の象徴「首里城」が焼失しました。電線か何かの老朽化で「漏電」が原因とのことです。何としたことでしょう。
「ここは沖縄,琉球王国」との確信を深めたのは,その後いくつかの「グスク」(城塞)を廻ったときのことです。
沖縄全土にかなりの数のグスクが残っています。
さらに,そのそばに,あるいは離れて,あの大きなお墓-亀甲墓が所狭しと存在し,かつてを偲ばせています。
狭い琉球にあっても,権力争いは続き,その往時を彷彿とさせるグスクでもありました。
二日目のメインは,沖縄戦で激戦地となった沖縄南部。
沖縄には,第二次世界大戦の残虐さと酷さとを物語る場所がいくつもあります。
その忌まわしい足跡の一つが「平和記念資料館」であり,「平和の礎」です。
沖縄戦に関する貴重な資料,米軍が残した記録映像,等々。
その中で記憶に残り,頭を離れないのは,沢山の生徒が綴った戦争についての生々しい記録と訴えの数々です。
目を通すことができたのはほんの一部分ですが,言葉を失う痛々しいものでした。
米国が沖縄での戦闘の様子を映像に残しているということも,不思議といえば不思議であり,戦いのさなかにあっても,
(記録の大切さは分かるのだが)変な余裕さえ感じられ,「この野郎」とこぶしが上がる思いがしたものです。
平和の礎は,沖縄戦で犠牲になったすべての国の人々も含め,日本人の犠牲者の名も県別に刻印され,広大な公園に美しく並んでいます。
その「平和の礎」から100mもない向こうに,いかにも沖縄と思えるエメラルドグリーンの大海原が広がっています。
佐喜眞美術館は普天間基地に隣接しています。
「原爆の図」で世界に知られる丸木位里,俊夫妻が全身全霊を込めて描いた「沖縄戦の図」,とりわけ「集団自決」の場面を前にして,
語る言葉を失いました。
そして,作中に丸木位里,俊夫妻が書き記した
「集団自決とは,手を下さない虐殺である」
の言葉に,息を飲みました。
三日目は,沖縄のいまを知るために北部方面へ。
この日は,たまたまキャンプ・シュワブ正面ゲート前で「辺野古新基地建設の断念を求める県民集会」が午後に行われる日でもありました。
私たちは,午前中にキャンプ・シュワブ前に立ち寄りました。
本当を言えば,このような参加の仕方は,実に恥ずべきことだと思います。
マスコミの取材でもなく,座り込みに参加するわけでもなく,いわば,飛び込みのチラッと見学。
様子見で立ち寄った観光ツアーの一環,と思われてもしかたがありません。
彼らは,24時間休みなしに,実直に,「本気」で,1年以上も座り込んでいるのです。
この実態を,本気さを,本土のどれだけの人が知っているのでしょうか。この必死さを,本土の日本人は知ろうともしません。
75%の米軍基地が沖縄にあります。
そして,そのことによって,日本の平和が担保されていることを,日本人はどれほど理解しているのでしょうか。
日本人の10%ぐらいの人々は知っているかも知れません。そんなことで,「知っている」と言うべきではないでしょう。
これからデモ,座り込みに参加する沖縄県民の弁。
「もう基地はこりごり。戦争も絶対だめ。その思いは我々の世代より,母親の世代がはるかに強い。
昔は『欲しがりません,勝つまでは』と教えられたもんだが,
今の気持ちは『もうこれ以上我慢できません,ウチナー(沖縄)は』ですよ」
これは,沖縄の人々の偽らざる思いであり,至言です。
こんなことを言うことは,はばかられるのですが,沖縄の人の多くは日本政府を信じていないのではないでしょうか。
更に,ヤマトの人をも信じていないのではないでしょうか。信じたくても,信じられないというのが,本当のところではないでしょうか。
そして本土の私たちも,沖縄を本気で心配している人は少ないのではないかと思います。
「普天間から辺野古へ」のことも,関心を寄せている人も,少ないでしょう。
従って,この原稿の冒頭に,東日本震災から10年,福島が「沖縄化」していると述べた理由の一端は,分かっていただけるものと思います。
沖縄の方々にとって「聖地」と思える「斎場御嶽」や世界遺産にもなっている「今帰仁城」のグスク,
「美ら海水族館」でジンベイザメなどを観察しましたが,その詳細は次稿に譲ります。
残念ながら,「次稿」は永遠に「未入稿」となってしまいました。
2014年初夏,阿部先生の右太ももに悪性脂肪腫が見つかり,患部の切除と左太ももからの移植手術を行いました。
その後,脚力と筋力を回復させるべく,短い距離ながら毎日散歩に励むなど,リハビリに取り組んでいました。
2015年の夏,だいぶ回復してきたことと,安保法制の問題と沖縄問題が新聞をにぎわす日々が続いていたこともあり,沖縄行きを提案しました。
そして9月,阿部先生と編集者(佐藤俊隆)の二人で一念発起,3泊4日の日程で沖縄の旅に出かけました。
旅から帰ってすぐ,そのときの記録をまとめた「旅行記」を作成しました。ご一読いただければ幸いです。
題して,【 沖縄,思い旅 】 (pdf,1.17MB)です。
リカオンという動物
犬,猫嫌いの私がこんな話を書くのも変な話だが,昨夜テレビで「リカオン」という動物の生態を探る番組(「ワイルドライフ」)を,たまたま観てしまった。
「小さな旅」「駅ピアノ」「地球タクシー」なども,BS1を点けていれば,ついつい観てしまう。「ワイルドライフ」もその類いである。
リカオンは,オオカミやハイエナ,そして,犬の仲間であると言う。リカオンの生態を30年にわたって調べている学者(女性)が撮影した記録映像が基になっている。
番組は,生きるための基本となる「餌」をどのようにして確保(狩り)するのか,そして,どのように「子育て」をするのか,の二つにスポットを当てていた。
まずは,【採餌行動】。
面白いことに,食事(狩り)の時間になると,大人(リーダーと思われる)の一頭が,「くしゃみ」をする。
すると,その「くしゃみ」を聞いた大人たちが,呼応して「くしゃみ」をする。
でも,よく見ると「くしゃみ」をしないものも,半分か3分の1程度いると言う。
実はここからが,興味深い。
「くしゃみ集団」の一頭が急に走り出す。すると「くしゃみ仲間」が一斉に飛び出し,獲物に向かう。
そのタイミングと連携プレイは見事の一言。一頭,一頭,それぞれに役割があるのだ。
ターゲットに向かって全速力で追いかけるもの。
相手が疲労困憊するまで執拗に追い回すもの(2,3頭)。
追いかける形も,場面場面で陣容を変え,多様な戦法を展開するのだ。
相手が,小型か大型か,何頭かによっても,作戦を変えるのだ。
そこには,必ず司令塔がいるはずなのだが,映像ではとらえることはできなかったようだ。
「獲物」は,しまうま,牛(バイソンなど),サイ,ゾウ(主に,仔象),ワニなど,多種にわたる。
大型の獣の場合,狙いは,子どもか怪我をして弱っているもの。子どもと弱者は,どの世界でも狙われてしまうようだ。
そして,【子育て】。
さて,この「狩り」に参加しなかった残りの3分の1の大人たちは,何をしていたのか。
なんと,これが何十匹もの子どもを相手に,遊び,寄り添い,保護するのだ。完璧な守りの態勢を取っている。
そのかわいがり方が尋常でない。1匹の子どもに,大人2頭か3頭が,群がって面倒をみるのだ。
「狩り」に行った大人たちが戻ってきた。
その大人たちが,一旦咀嚼したものを,胃の中から吐き出して,子どもたちに「餌」をやるのだ。
わが子だけでなく,どの子どもにも,まんべんなくやっている。
撮影された「リカオン」の集団は,親子合わせて30頭から40頭の集団である。
彼らの,顔に「似合わぬ」凄い団結力と信頼関係,そして「思いやり」に,感心してしまった。
それにしても,「狩り」に「行くか」「残るか」を瞬時に判断する時の,「合図」にも似た「決」の取り方とその素早さに驚いた。
瞬時の民主主義で,「参加」「不参加」の「意志表明」を行い,互いに確認し合うのだ。
リカオンが,生き残るために,何千年あるいは何万年かけて生み出した戦略とは言え,その文明の熟度の高さに脱帽した。
リカオンの「野性的判断」「組織力」,そして「団結力」,恐るべし。
(2020年5月25日)
私と女帝
私はいまだに犬や猫が苦手である。犬のほうは怖くて,猫はただ単に嫌いなのだ。
どちらにも,そうなった遠因がある。
犬については,小学校の低学年のころのある事件に端を発している。
夏休みの昼下がり,友だちが遊びの誘いに来た。
道路から響く,「哲ちゃん,遊ぼう」の声に反応して,例によって,私は思いっきり玄関を飛び出した。
2歩目か3歩目で,私の足は何か柔らかいものを踏んでしまった。途端に,大きな犬が,私の足にかみついた。
日頃慣れ親しんだ犬でも,熟睡している時に不意打ちされては,たまったものではない。犬に罪はない。
「女帝」という名の,おとなしく賢い秋田犬だったのだが,以来,私にとって犬は怖い存在となったのである。
そんな私が,その後の人生で1匹だけ友だちになった犬がいる。
浦戸で出会った「シロ」である。
捨て犬の「シロ」との出会いは別稿に譲る。
犬の先祖はオオカミであり,2万年ぐらいかけて人類が飼い馴らしてきたと言われている。オオカミの中でも,大人しいものを何度も何度も交配し,現在の犬にたどりついたのだ。
猫はなぜか嫌いだ。
3月,4月ごろのあの鳴き声がとりわけ嫌だ。
NHKで,岩合という有名な写真家が,世界中の猫を撮影し,紹介している番組がある。岩合氏が猫撫で声で近づき,それに反応する猫どもを見ると,具合が悪くなるのだ。
もともと猫は,虎や豹,もしくはチーターの仲間であり,ペットとして飼う人が増えているが,私は嫌いである。
天下のNHKが,そんな一部の人間の趣味に迎合して,毎日のようにあのような番組を放送するのはやめてもらいたい。猛烈に嫌がっている人は,私を筆頭に,相当数いるのだ。
旅先での失敗談を三つ
失敗談の一つ目。
妹夫婦と中国に行った時の話
確か,雲南省,桂倫だったと思う。
6,7人乗りのタクシー(ミクロバス)が着くと,観光客めがけて,人が殺到する。その中に「スリ」集団がいる。
その時も,二人の若い女が私に向かってきた。
「500円で観光写真を買え」と言う。
うるさいので,私は買うことにした。中国銭で払うために,右側のポケットから財布を取り出した。その時左側のポケットには,日本円で5万円が入った財布が入っていた。支払いに気を取られている間に,左側は,完璧にお留守。もう一人の女が,5万円の財布を失敬。私がバスに乗り込むまで,約10秒。財布がないことに気づいたときには,女二人は,はるか50m先にいた。添乗員の長さんが後を追いかけたが,二人の姿は影も形もない。
私は,見事な連携プレイと技術に驚嘆し,「これ以上追いかけなくてもいいよ」と声を掛けた。
「阿部さんは,太っているので,お金持ちに見えるのです」
は長さんの弁。
ちなみに,当時の中国の平均給与は1か月3万円。日本の10分の1。
今どきの中国の富裕層と言えば,けた違いの大金持ちである。日中の間で逆転現象が起きている。世の変容はすごい。
失敗談の二つ目は,パリでの話。
これは,比較的最近の話。今から12,3年前の3度目の巴里。
私は,その時,地下鉄の人となっていた。普通の込み具合だったと,記憶している。
座る席もなく,立ってきょろきょろする私を,10mほど離れたところから見つけた女二人組。たいていが,若い女だ。鴨を狙って,私に近づいてきた。ひとりは,新聞を広げたまま。
私は,とっさに「こいつらは,『俺を,狙っている』と判断」した。
彼女らは,新聞を広げたまま二人で私を囲んだ。そこで私は,財布を取り出し,左手にしっかり持ち直し,一人に向かって「ニッコリ」微笑みかけた。
その間,数秒。
相手の一人は,微笑みを返して,あきらめ顔で戻って行った。
素知らぬ顔をして,事の一部始終を観察していたのだが,じつは,心底怖かったのだ。
「スリ」と分かっていながら,実験台になるわけには行かない。プライドが許さないのだ。ある種の怖さと好奇心とが入り混じった,忘れられない思い出である。
もう一つの,パリでの失敗談。
今から20年くらい前。これも,妹夫婦と旅行した時の話。
その日は,小雨が時々。300円か500円程度のビニル傘を購入。このことがすべての不運の始まり。私たちはタクシーに乗った。目的地に着き,タクシーを降りた。
降りてからしばらくして,バックがないのに気が付いた。なんと,車の中に忘れたのだ。
私はそのタクシーを止めようと,追いかけた。運転手は気が付くはずもなく,走り去った。
それからがたいへんだった。
タクシーを,何台も止めた。運転手にいくら話しかけても,英語が全然,通じない。昔と,少しも変わらない。
私はあせっていた。急いでいた。バッグの中に,現金のみならず,カードが入っていたからである。パスポートだけは肌身離さず持っていたが,その他の財産はすべてバッグの中に入っていた。
ホテルに戻って,日本に電話し,すぐにカードを無効にしなければならないのだ。つまり,「止めてもらう」のである。ところが,肝心のタクシーがつかまらない。10台ぐらい挑戦した後,やっと,筆談で車をつかまえた。すぐにホテルに取って返し,日本の銀行と連絡を取り,カードの無効を宣言して,事なきを得た。
その後,パリ郊外の落とし物・忘れ物の集積場みたいな所に行き,事の次第を伝えた。
「明日も,明後日も,ここに来て探せ」
と,当直は言うが,笑いながら言ってるだけ。財布などは,絶対に出てこない。
後で分かったことだが,昔と少しも変わらないのは,「英語」を話すフランス人が多くないということ。少し増えたとすれば,アフリカ系の移民が,生きるために英語を使うためであろう。
冷静になって,この事件を振り返ってみると,事は簡単に起きている。
タクシーの乗り降りは右側で行うこと。
バッグをたすき掛けしないで左肩に掛けていたこと。
ひもが外れたのに気づかなかったこと。
私が,ビニル傘を持っていたため,バッグの存在を完全に忘れ,右側のドアから降りたこと。
日本のように,左側から降りれば,バックは,必ず体に当たっていたはず。
日本であれば,不幸な事件は起きなかったはずである。
(2020年5月12日)
戻ってきた財布
前回は,外国での失敗ばかりを書いたが,今回は,心温まる話,それも,日本でのことである。
このごろの私は,外出や買い物に出かけることは激減したのだが,20年前~10年前は,頻繁に買い物に出かけていた。
1回目は,三越でのことである。5000円ぐらいの品物を買い,トイレに入った。三越一階である。棚にバッグを置き,買ったものを左手に持ったまま,用を足した。そのまま外に出て,徒歩10分の駐車場に向かった。
途中でバッグを持っていないことに気付き,急いで引き返した。かなり焦っていた。バッグの中身は,現金数万円入りの財布と100万単位のカード2枚。置き忘れた場所はトイレ以外にない。トイレを出てからすでに15分ぐらい経っていた。
トイレを探した。「ない!」。
顔から血の気が引いた。すぐに「落とし物係」の所在を確認して,地階に向かった。住所,氏名,生年月日を名乗ったところ,「これでしょうか」と,奥から黒いバッグを取り出してきた。まさしく私のものだった。
届けてくれた方は名前も名乗らず,消えてしまったという。私は「お礼」をする機会も与えられず,しばし呆然としてしまった。係の方の迅速な対応とバッグを届けてくれた方の善意に感謝し,その場を辞した。
2回目は,藤崎の隣にあった蕎麦屋「朝日屋」である。
ざるそばを食べた。テーブルの下に,あの時のバッグを置いたまま,店を出た。その時も,思い出すのに15分ぐらいかかった。店の人が預かってくれていた。
3回目は,「柳生生協」。
相互台小学校の保護者から自宅に電話がかかってきた。
「校長先生,柳生生協の館内放送で,先生の名前が呼ばれていました。何か,忘れませんでしたか?」
また,買った商品を整理する台の上に財布を忘れたのである。すぐさま店に向かった。またしても,一円も無くなることなく,財布が戻ってきた。
4回目は,一番丁の「いろは横丁」の入り口にある小さな「蕎麦屋」である。
こう言っては失礼なのだが,「危険」「危ない」と言ったら,ここは一番なくなる可能性が大きい。一杯300円くらいの立ち食いそばの店である。
ここに,バッグを忘れて20分。客は何人も変わっている。出入りも激しい。でも,手つかずで,店主が確保してくれ,私に戻ったのである。
ここまで書くと,「運」だの,「ツキ」だののレベルではない。
いくら忘れても,いつも戻ってくる。不思議なことなのだ。
だからと言って,
「日本は,安全な国だ。落としたり,忘れたりしても,財布は必ず戻るよ」とは言わない。
「戻る確率が外国に比べて,高い」,と言っておこう。
戻ってきた「財布」事件。実は,5回目があったのである。
昨年秋のお彼岸の時,どうしても秋保の「さいち」のおはぎが食べたくなって,秋保まで行った。相変わらずものすごい混みようで,駐車することすら難しかった。何とか車を止め,店に向かったのだが,店の中は人でごった返している。やっとの思いでおはぎを購入し,トイレに入り,一息。鏡の前の台に財布を置いて,手を洗った。
そして,いつものように車中の人となり,家路についた。帰宅して1時間後に,財布がないことに気付き,店に電話をした。
責任者曰く,
「届いています。私が保管しています」
とのこと。
店に着いたのは,事が起こってから実に2時間後。今回も1円も無くならなかったのである。
なんという,僥倖。
(2020年5月13日)
イノダコーヒーのこと
仙台市東一番丁,南町通りから北へ5軒目あたりから入る「いろは横丁」。その3軒目に「いのだコーヒー仙台店」があった。確か,店の正式な名は「ニューエレガンス」。1974年創業というから50年ほど前にオープンし,2年ぐらい前に閉店してしまった。
「丸善」に行ったり,「金港堂」や「サイカワ運動具店」へ寄ったり,あるいは,「とんかつ大町」や「開盛庵」(うなぎ)で食事をした帰りに,必ずと言っていいほど立ち寄った。普通のコーヒーより高い(700円ぐらい)のだが,ファンが沢山いて,いつ行ってもそれなりに客が入っていた。どうして閉じたのか分からない。決して採算面の問題ではないはずだ。あの界隈から「丸善」が消え,「サイカワ」も「とんかつ大町」もなくなり,実に寂しい。
イノダコーヒー(正式には「イノダコーヒ」)は私に合っているので,今でも,京都・伏見にある焙煎工場から直送で購入している。注文するのは,もっぱら,赤缶の「アラビアの真珠」(アラビアンパール)。心残りは,京都に行っても,8軒もある支店に一度も行ったことがないことである。
イノダコーヒーと直接関係することではないが,コーヒーについて言えば,元「名画座」だったところにある「エビアン」,三越から南へ3軒目にある「エビアン」,そして,三越内1階南側にある「喫茶店」が,今の私が入る数少ない「喫茶店」である。
「スターバックス」とか「ドトール」には,基本的に入らない。そもそもおいしくない。三越の向かいにあるビルの3階,それに仙台駅の北に位置するアエル3階にある「ホシヤマ珈琲店」の値段の高さはバカげている。論外である。高価な器の値段が含まれているに違いない。
中身は大手町の我が家で淹れるイノダコーヒーの方が,はるかに美味である。
世界の美術館
紫禁城を経て,万里の長城に1歩足を踏み出した時,ある種の感慨が頭をよぎった。世界地図を眺め世界地図を使ってものを教え始めて50年以上になるが,その地図上に小さな一歩を印したのを,意識したからである。わずか1キロ程度歩いただけだが,そのスケールの大きさに圧倒された。現役時代,自分の想像だけで教壇に立ってきたのだが,改めて中国の奥の深さと歴史の長さを思い知った。
故宮博物館の展示品を目の当たりにしたときは,驚きを通り越して,培ってきた歴史観が根底的から揺さぶられる思いがした。日本の古代・中世の文物が,ここ中国に出発点があることを,改めて思い知らされた。
その何日か後に,「兵馬俑」を見た。
「いったい,なんなんだ,これは」
思わずこの言葉が口をついて出た。
中国の凄さというより,歴史の複雑さに驚嘆したのである。等身大の人間より,はるかに大きな武者軍団を,誰が,どうやって,何のために作ったのか。その数,発掘されているだけで,何千体,何万体に及ぶ。すべての発掘が終わるまで,何十年もかかると言われる。それぞれの塑像が浮かべる表情や仕草が,みな違っていて,興味深い。誰が,どのような気持ちで製作したのだろうか。想像すると,思わず,にんまりしてしまう。
次は,英国のブリティッシュ・ミュージアム(大英博物館)である。
入館料は無料である。なんと,税金を払ってない外国人まで無料である。さすが,イギリス。歴史の授業でおなじみのロゼッタ・ストーンをはじめ,世界の至宝が何十万点も眠っている。向かいのフランスのルーブル同様,戦利品が圧倒的に多いのだが,じっくり観ると1週間や10日はかかるだろう。ここにも,これだけの,世界の,財宝が眠っているのだ。
東京の国立博物館や京都の国立博物館などを訪れるたびに,外国の規模の大きさに驚かされる。とりわけ,仙台にいて,仙台市博物館や県立美術館が日常であるわが身には。
フランスのルーブル博物館(宮殿)にも,舌を巻く。ナポレオンが分捕った夥しい戦利品,世界の財宝が際限なく眠っている。「モナ・リサ」(レオナルド・ダ・ビンチ作)の前の人だかりは,相変わらずだが。
フランスの財政が傾いたとしても,この財宝を売れば何とかしのげる,と言われているらしい。一国の経済破綻を救えるほどの財宝と見た。
スペインのプラダ美術館もたいしたものだ。が,美術品等に何の才能も知見もない私にとって,まさに「猫に小判」で,本物の価値など分かるはずもないのだが。凄さだけは,分かる。
後年,米国を訪ねた折は,スミソニアン博物館とメトロポリタン美術館にも行った。
すでに日本から失われてしまった日本を代表する名作が,所狭しと展示されており,驚きを禁じえなかった。その当時,クイーンズ地区に移転していたMoMA(ニューヨーク近代美術館)にも足をのばした。さらに,ボストン美術館にも赴いた。そのときに受けた感銘も,忘れられない。
ただ一つの心残りは,ロシア・サンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館である。モスクワまでは行ったのだが,体調不良で行けなかったのである。心残りである。
磯浜ユースホステルの思い出
さて,昔昔,大学2年の頃。仲間4人(佐藤哲,村岡,見S田x〔←解読不能〕,阿部哲)で,九州地方,山陰地方を巡って帰る,貧乏旅行を断行した。軍資金は,直前までのアルバイトである。
宿泊は,ほとんどがユースホステルで,時折お寺の本堂にもお世話になった。60年前のことなので,記憶に残ることは少ないのだが,今でも忘れがたいことが一つある。
当時のホステル経営は,やや裕福な人が,若者育成のために,私財を投じて営んでおり,ほとんどボランティアに近いものだったと記憶している。おそらく,利益はなかったろうと思う。
鹿児島県で世話になった「磯浜ユースホステル」もそんなところだった。
鹿児島湾を隔てて,噴煙を上げ続ける桜島に面したところにそれはあった。風光明媚で,瀟洒な邸宅であり,たくさんの部屋を宿泊者に開放していた。
主人は,市内の「亀や」というデパートの経営者であった。ホステルはほとんど家族経営で賄い,子どもたちは,よく働いた。言わば,社長の息子や娘なのに,寸暇を惜しんで,働くのである。
例えば,夕飯の準備は,奥さんを中心に全員でやる。そして,配膳。さらに布団敷き,夕飯の片付けと,仕事が次から次へと続く。最後に自分たちの食事である。兄弟姉妹に,不満もなく,皆,和気藹々で仕事をする。
我々の食事が終わったころ,ペアレンツの部屋に呼ばれ,彼らと談笑する。
その家は,「古木」さんと言った。私は,古木さんの話の概要を,今でも覚えている。
彼は,50代半ばだったような気がする。
古木家には,子どもたちが大人になるための「掟」」と言うか,「ルール」,もしくは,「通過儀礼」と言ったものがあった。
夕飯の準備も,布団敷きも,その一つで,誰にも,不満はない。それより,大人になるまでにしなければならない「通過儀礼」が大変だ。
15歳-桜島に行って,たった一人でテントに泊まり,一晩過ごすこと。
18歳-ユースホステルから,対岸の桜島まで,泳ぎ切ること。
20歳-5万円を持って,海外へ行き,2泊の旅をしてくること。
確か,0歳と12歳のときにもあったはずだが,残念ながら忘れてしまった。
「人間は,強く,たくましくなければ,生きていけない」,と古木さんは,熱く語った。
それから,幾星霜(60年)。夜中の「ラジオ深夜便」の中で,鹿児島のユースホステルの話が出た。私は,60年前に戻ったように感じ,急いでメモ帳にホステルの名を書き留めた。
今は,息子さんの代なのかお孫さんなのか,定かではないのだが,住所を変えて運営していることが分かった。
それにしても,あの当時の,古木ファミリーの目指したものは,何だったんだろうか。
当時の私には,とても,眩しく,凄すぎて,理想的過ぎる家族のように感じられた。
「新婚旅行で,必ず寄ります」,と約束したのだが,いまだに果たせないでいる。
(2020年4月10日)
甲子園中止報道に思う (2020年5月22日)
テレビにスイッチを入れると,ワイドショーばかり。
アナウンサーでもない,芸人みたいなのが,「正義漢」ぶって,へらへらしゃべっている。いずれも,常識レベルの知識で「話すことには,慣れている」ので,よくしゃべる。学問としての教養がないので,深みはほとんどない。
話題は,新型コロナのことばかり。世界の感染者500万人,死者30万人(死亡率6%~7%)。2020オリンピックも中止の方向で動いている。日本の総理をはじめ,お偉い関係者だけが,焦っているが,当然中止に決まっている。私は1月からそう言ってきた。
また,メディアが偏向報道を始めた。昨日から。「甲子園大会中止」が大きく取り上げられ,高校野球選手,監督,プロ野球選手が,何度も何度も出てくる。全国3800チームの野球選手,親,関係者の落胆,失望感,喪失感の大きさは,計り知れない。励ましの言葉も安易に出てこない。
私も野球好きなのでいいのだが,他の競技はどうなるのだ。すべての競技が中止になっているのだ。
今,日本のみならず,世界が,ほぼ未曽有の問題に対峙している。世の大人たちは,特に医療関係者は自分や家族を犠牲にして,昼夜を問わず,一人でも多くの「命」を救うために頑張っている。それだけでなく,子どもから,90歳,100歳をこえるお年寄りまで,不自由を余儀なくされても,3か月も4か月も,皆,頑張っている。
テレビや新聞は,野球だけでなく,野球をはるかに超える数の子供たちが所属する他の部活動の選手や親の悲しみや辛さも吸い上げて報じてほしい。今のままでは,ほとんどマスコミの気ままと贔屓,上からの押し付けでやっているとしか思えないのだ。
日本人の多くは野球が好きで,ファンも多い。しかし,実際に,小・中・高校で野球を経験した人は,一握りなのだ。他の部活動で汗を流し,頑張った人が,はるかに,はるかに何倍,何十倍もいるのだ。
メディアで働く,あなたに,問いたい。
「あなたは,中学時代,高校時代,どんな部活に所属していましたか?」
「学校以外で習い事をしましたか?」
陸上トラックはなぜ時計回りではないのか
いつのころからか,覚えていないのですが,ずっと疑問に思っていることがあります。
陸上競技のことです。小学校の運動会に始まり,中学,高校,大学,社会人に至るまで,陸上大会のトラック競技は,すべて,反時計周りに走るのです。オリンピックをはじめとする国際大会も,「左周り」なのです。リレーだって,1万メートルだって,左周りなのです。
いつごろから始まり,誰が,決めたのか?不思議です。
選手が,皆右利きであるわけでありません。左利きの人にとって,左周りが,不利なような気がするのです。でも,そういうことを誰にも聞いたことがないので,本当のことは,分かりません。ちなみに,野球,ソフトも左回り,スケート,競輪も同じです。
唯一競馬のレースでは,時計回り,つまり「右回り」が圧倒的に多いのです。詳しく調べたわけでないので断言はできないのですが。先日の「さつき賞」も右回りでした。イメージしながら,ゴールシーンを思い浮かべると,右から左に,馬が流れていくのが,残像として残っているのです。ということは,競馬は右まわりなのです。でも,私の記憶では,左周りの競馬も,けっこうあるのです。
ただ,依然として,消えない疑問は,人間の競争が「左回り」であることです。
もしかすると,地球の,公転,自転が左周りに関係するのかも知れません。
庭に咲くしゃくなげの思い出
今,我が家のしゃくなげが満開である。
つぼみのうちはワインレッドのような赤なのだが,開くとなんと表現したらいいのかわからないくらいの,薄い,淡いピンクの花である。
楚々とした花が,高さ2mほどに成長した枝一面に300ほど咲いている。
残念ながら,咲いている場所が場所である。
我が家の庭の一番西奥,南隣の家の陰で,静かに咲いている。
加えて,手前の大きく成長した「ゆずりは」が視線をふさいでいる。
というわけで,年月をかけて少しずつ伸びてきたしゃくなげなのだが,道路からはほとんど見えない。
玄関先まで来ても,よほど庭木,植木好きな人でなければ,気づく人はいない。
そこで私は「私が,自慢できる唯一の美しい花」と言って,誰彼なく紹介する。
しゃくなげは,そんなことはどうでもいいように,今日も4月の澄み切った青空を背景に見事に咲いている。
実を言うと,このしゃくなげだけが,亡き妻,淑子の形見である。
40年ぐらい前,会津,只見,桧枝岐方面へドライブに行ったとき,その辺りで買い求め,飯野坂の借家に植え,さらに,引っ越しのとき,彼女が何気に持ってきて移し植えたものである。
その花が,何十年も欠かすことなく咲いている。
目立たぬように,しかし,少しだけ自己主張している姿は,妻・淑子(としこ)に似ている。
(2020年4月29日)
私は高所恐怖症
私は高所恐怖症である。
この事実を知る前は,栗駒山や蔵王山などの近くの山に何度も登った。生徒と一緒の学校登山がほとんどであるが。
昭和50年代前半,名取一中時代,ついに私の高所恐怖症が明らかになる日がきた。
夏休みを利用して山好きの仲間4人で北アルプス,剣岳に登った。私以外の3人は山登りの経験者で,山行のベテランだった。
標高2990m付近に「かにの横ばい」という名所がある。大きな岩の側面に,岩を削って造られた幅約10cm,長さ20m程の断崖絶壁の「道」がある。
足元から約1.5メートル高さに,岩盤に打ち込んだ鉄のチェーンがついており,それがわずか10cm幅の登山道の命綱になっている。同行の3人はその難所を難なくクリアして先に行ってしまい,姿は見えない。
私は「かにの横ばい」に1歩目を踏み出したところで,思わず下を見てしまった。
足元の5m,10m下を雲が流れていく。
断崖絶壁,斜度90度の切り立った崖を一歩進んだところで,足がすくみ,体全体か固まり動けなくなった。
いつの間にか上りのルート側には女子高生と思われる集団が20名ぐらい,そして,下山ルート側には3人の登山者が,私の一挙手一投足を見守っている。
「大丈夫」
「大丈夫ですよ,あなた」
「初めてですね,この山は。次に登ればいいのです」
右手にいた老人が,静かな声で私に声をかけた。
「まず,体の力を少し抜いてください」
「大丈夫ですから,少し力を抜いて,左足を少しだけ左に向けて,そう,そう,今度は右足を左側に。そう,そう。今度は,体全体を少しだけ左に向けて,そう,そう,大丈夫ですよ」
「少し休みましょう,大きく息を吸って,大丈夫ですよ」
「はい,今度は右手でチェーンを掴んで,両足に少しだけ力を入れて,1,2,3,で飛んでください。大丈夫,できますよ」
と声を掛け続けてくれた。
私はその老人の指示に神の命に従うように従った。
そして,思い切り跳んだ。たった1.2mのところを。拍手が沸いた。
山上での数分間の出来事だった。恐らく私と老人以外の人は覚えていないにちがいない。
剣御前小屋までのおよそ1時間,助さん格さんを伴った水戸黄門ならぬ謎の老人は,私と一緒に降りてくれた。下る途中,助さん格さんに命じ,足裏に全体重を掛けて降りること等,登山の基本を実践しながら教えてくれた。
その日の夕方,東京駅か上野駅か忘れたが,朝日新聞か東京新聞の夕刊を買った。ページをめくって驚いた。左下の方にあの老人の写真が載っているではないか。「83歳の記念登山 元中部電力社長」の見出しで4段ほどの記事になって。
仲間にその話をしても,見ていないので誰にも共感してもらえず,少しがっかり。
あらためて,立派な人は人間の出来が違うのだ思った。
(2020年4月10日)
私はいつも不審者
相互台小学校の時,1年生の2か月程度,昼食が終わると,担任が送っていくことが,慣例になっている。下校に慣れるまでである。
その日は私も,時間があったので,1年生の様子見も兼ね,手をつないで送っていった。
急ぎ足で帰れば,20分ぐらいで着く距離も,1年生の「道草」「道すがら」は長い。
団地の中なので迷いはないのだが,一人去り,二人去り,少しずつ少人数になっていく。
30分以上かかって,女の子が一人になった。
団地のはずれの子だったが,玄関でいくら大きな声で「ただいま」を言っても,いるはずのお母さんの声が聞こえない。
とその時,隣の家の女の人が「○○ちゃん,お母さんは,まだ帰ってこないと思って,〇〇さんの家にいったわよ」と言って,私の顔を不審そうに,眺めた。
女の子は,母親がいるであろう家に行く。
いない。
そうしたら,隣のおばさんが,「うちに来たら」と,ますます,私を,疑うような目つきで言う。
女の子は,とうとう,泣き出してしまった。
校長先生に送ってもらったのに,その校長先生が疑われている。そこが1年生。簡単に説明できない。5,6分の時間が流れた。
と,お母さんが戻ってきた。
「あら,校長先生?送ってくれたのですか?」と恐縮した。
隣のおばさんは,静かに玄関の戸をしめた。
私の顔はどうも,先生には見えないらしい。
ここでは,完璧に,「不審者」であった。
不審者といえば,その前の坪沼小学校でも,校長としての最初の赴任日から,疑われた形跡がある。
「ヤクザ屋さん」か,よくても「地検特捜部」のような風采にしか見えなかったようです。
人は7割がた見かけです。つまり,第一印象で決まります。
せめて,私も髪を,七三か,六四にしていれば,こんなことは,なかったでしょう。
・教育長になっても,不審者に思われたこと
名取市の教育長になって,1か月足らず,みどり台中学校で市内小中学校校長会が開かれた。
その帰り,増田西小学校の前を通ろうとしたとき,校庭の古くなった遊具(ブランコ)が気になった。
遊具の老朽化が全国的に話題に上っていた。
私は,車を端のほうに停めて,目立たぬように,校庭の隅にある遊具に向かった。
校庭では,3年生か4年生が,運動会の学年練習をしている。
誰もいない遊具のコーナーで,私は,安全点検をした。
とその時,3,4人の教員が一人の年配の人に駆け寄り,話し合い。
私はとっさに,この状況をよみ,「私」のことを警戒しての話し合いと判断。
すると,その中の一人の教員が職員室へ向かって,走り出した。
私は,この時点で,完全に「不審者」となった。
仕方がない。90%の人が,新しい教育長の顔など知らないのだ。
私は,ゆっくり歩いて,車に方へ向かった。
通報を受けた教頭が,やや急ぎ足で私の方に向かっている。
しかし彼は,20mくらいのところで,私が,新教育長であることに気づいたのである。
「教育長さん,どうぞ,どうぞ。お茶を一服」と。
私は「先生方に迷惑をかけてすみませんでした」と謝罪した。
この日のことを,教頭がまじめに事件化すると,次のようになる。
見出しは,「不審者の対応について」。
校長はこの文書に捺印し,教育委員会に送付,委員会では,いくつもの捺印が押されて,私(教育長)に上がってきて,
私が「認め」を押して,一件落着となる。
(2020年5月14日)
甘いお菓子について
私は,この79年間,甘い菓子をこよなく好んで食べてきました。日本中のというより,世界中の「これは」という菓子を,食べきった感があります。
最初は和菓子,洋菓子を問わず,食べていたのですが,いつからか(たぶん,50歳の頃か?)記憶にはないのですが,和菓子が,圧倒的に好きになったのです。実のところその理由はわかりません。
さらに,70代ごろから「あんこ」が大好きになるのです。挙げたらきりがありませんが,最中,ようかん,大福まんじゅう(たこうや),銀つば,あんこ餅,ぜんざい,おはぎ(高砂屋,さいち),小豆カボチャ,小豆キャンディー等々,「あんこ」をベースにした菓子は沢山あるのです。
みつまめの缶詰に「あんこ」をいれると絶品です。あまりの美味しさにすっかりはまり,何か月か食べ続けていたら,1か月で,5,6キロ増えたので,止めたところです。ただ,私の場合,「あんこ」が安定剤の役目を果たし「心」が落ち着き,加えて体が喜ぶようなのです。たばこをやめてからは,一層そういう状況が強まっているようです。困ったものですね。
(2020年5月20日)
銭湯は楽し
記憶が定かではないのだが,小学校低学年まで,北六番丁と北仙台まで走っていた電車通りの交差点近くの「徳の湯」に通った。銭湯で遊んで過ごし,帰宅し夕飯。夕飯の後での銭湯もあったかもしれない。小学校4年か5年の頃,「徳の湯」が北鍛冶町に引っ越してきた。北六番丁と北鍛冶町の角地にあり,子どもの足で自宅から5分ほどの道のりである。
今と違って仙台はもっと寒かったような気がする。雪も季節になれば,よく降った。冬が来れば,足袋をはき,雪が降れば,長靴(ゴム長)で銭湯に向かう。
小学生にとって,銭湯は結構な遊び場であった。何故か向かって右が男湯,左は女湯。料金を払う。残念ながら大人料金も子ども料金も覚えていない。16番(背番号16はジャイアンツのスーパースター川上)の下足箱を探す。空いていることを願って。次に16番の脱衣所(箱)を探す。空いていればラッキーであり,ふさがっていれば,その付近に脱ぐ。
体重計に上がると36キロ~50キロぐらいあったことは今でもなぜか覚えている。大学を出て教員になった時,60キロであり,その後47歳まで変わらず,60歳定年ごろは70キロ前後であったと思っている。その後食べることにばかりに生きがいを感じ,75キロをも超える「デブ」となった。食べすぎと運動不足が「デブ」をつくっていく。
さておき,銭湯は楽しかった。濁って,底が見えない。5m×3m,深さ80cmぐらいの浴槽は,「小さな温水プール」であり恰好の遊び場であった。必ず顔見知りの子どもや大人と出会い,その日の世の中のニュースや学校の出来事が話題となり,大人も子どもも,ごちゃまぜの話が飛び交い,笑いに興じたことが多かった。汗で汚れたどぶ水のような湯の中にもぐって遊ぶ事もしょっちゅうであった。それでも。誰も病気にもならない。もっとも,トラホームはあったが。
私達は兄弟3人で行くことが多く,3人で背中こすり合い,流し合ったことは懐かしい。私は兄達に全身を洗ってもらったことも覚えている。1時間ぐらいは簡単に過ぎていった。
無駄といえば無駄であり,もったいない時間でもあった。しかし,特に大きな目標もなく,しなければならない用事もなく,思春期の入り口にいる平凡な少年にとって,銭湯で過ごす1時間は大切な社交の場であり,社会を見る窓となった。いつの頃か,テレビも入り(一般家庭よりちょっと早い),男湯と女湯の両側から見えるところに置かれ,相撲やクイズ番組などを楽しんだことを覚えている。冬は家へ帰り着くまでの5分ですっかり体は冷えてしまった。家に帰れば,炬燵が待っていた。炬燵といえば,「炭火」「練炭」「コークス」そして「電気炬燵」へと移っていった。
現在,自宅に風呂があるのは当たり前の時代なのだが,幼少の頃から銭湯が常態なので,いつも銭湯が懐かしく,自家用風呂を希った覚えはない。しかし,今は,自家用の風呂でなければ「入れない」ぐらい体が弱体化している。無念…。
読書と私
20代前半,50代,60代,70代が本に親しんだ年代である。
10代までは漫画本。『少年倶楽部』『冒険王』の雑誌に親しむ。確か『イガグリくん』で,私の漫画の愛読は終わっている。従って『アトム』とか『フェニックス』とか『アドルフに告ぐ』などの手塚治虫作品のすべてを読んでいない。私が子どもの時に読んだのは,『宮本武蔵』『塚原卜伝』『野口英世』『新戸部稲造』『日本地図を作った伊能忠敬』など,なぜか剣豪小説や偉人伝に限られていた。
高校時代,予備校時代。英語に集中,特化した。コナン・ドイル作,『シャーロック・ホームズ』5巻,6巻を原書で読む。『二都物語』『月と6ペンス』『第三の男』を原書(英語)で読む。「文化センター」で,ニューヨーク・タイムズ,ワシントン・ポストを流し読む。英文法,英作文の基本を徹底的に学ぶ。このことは,後に大学で英会話を身に付けるためにも,役だったと思っている。
大学4年間は「岩波文庫」「岩波新書」を集中的に読んだ。自分の能力では理解困難なものばかりで,「知的水準」の低さに改めて落胆することとなった。経済学,政治学,社会学,哲学のジャンルであり,難解中の難解であった。『資本論』などは,みんな理解できるのだろうか,と学者まで疑った。たった1ページを読むのに1週間近くかかった。それでも内容が理解できないのだ。それでも4年間で岩波文庫(青表紙)のほとんどに目を通し,岩波新書にもほぼすべてに手を付けたことは,理解できたかどうか(それが大切)は別にして,わたしにとっての「金字塔」である。
読書とは直接関係ないが,卒業論文のテーマを「福祉国家の建設」と大上段に構えてしまい,困り果ててしまった。学問についての理解や知見がないと,研究の方向さえ見通せず,研究分野の絞り込みさえできない始末。福祉国家の一分野に焦点を当て,さらに100分の1程度の間口に絞り込んで研究を進めるべきだった,と気づいたのは10年以上たってからであった。それでも,当時のゼミの佐藤健三先生から「阿部君は考える視点(発想)」に独創的な面が随所に見られ,とてもよかった」と賛辞を贈られたことが,その後の人生の見えざる力になっているようだ。
教員になってからは,読書量が激減した。
教員になったがゆえに,教育に関する本を読むことになる。恥ずかしながら,なってから「教育とは何か」から始まる基本的,本質的命題に向き合うことになる。教育哲学から社会科の指導に至るまでとにかく教育書を読みあさった。20代から40代ぐらいまでの間に「教育書」以外に読んだ本は少ない。思い出すのに時間はかからない。倉田百三の『出家とその弟子』,住井すゑの『橋のない川』,五味川順平の『人間の条件』,山岡荘八の『徳川家康』全巻,そして,『織田信長』など,印象に残る本は極めて少ないのだ。やがて50代になり,校長職などになると,急に自分の知見の無さや見識の低さが不安になり,それらを埋めるべく「読書」に専念していった。ジャンルは多岐にわたっており,その全容を書き記すことは困難なので,その一部強く印象に残る部分だけ書き出してみる。
(1) 筑紫 哲也 「この『くに』の面影」「ニュースキャスター」
(2) 丸山 眞男 「日本の思想」「日本政治思想史研究」「現代政治の思想と行動」「『文明論之概略』を読む」
(3) 福沢 諭吉 「学問のすすめ」「福翁自伝」「文明論之概略」
(4) 加藤 周一 「羊の歌」「夕陽妄語」「加藤周一自選集」
(5) 加藤 陽子 「止められなかった戦争」「それでも日本人は戦争を選んだ」「戦争まで」「徴兵制と近代日本」
(6) 半藤 一利 「今,戦争と平和を語る」
(7) 柄谷 行人 「世界史の構造」
(8) フランソワ・ギゾー 「ヨーロッパ文明史」
(9) 吉本 隆明 「日本人は思想したか」「信の構造」「マチウ書試論」「音楽機械論」「遺書」「詩の力」
(10) 小熊 英二 「単一民族神話の起源」「私達は今どこにいるのか」「社会を変えるには」
(11) ジョンダワー 「敗北を抱きしめて」
(12) 広井 良典 「コミュニテーを問い直す」 *これは名著です。
(13) 渡辺 和子 「美しい人に」「心に愛がなければ」「置かれた場所で咲きなさい」
(14) 藤田 英典 「教育改革」
(15) マイケル・サンデル 「これからの『正義』の話をしよう」
(16) 内田 樹 「昭和のエートス」「街場の中国論」「街場の教育論」「街場のアメリカ論」
(2020年12月31日)
「子どもの日」に寄せる
2020年5月5日(火) こどもの日
ここ,大手町1丁目界隈で,ほとんど,こどもの姿を見かけない。60代,70代,80代を超える老人世代が8割ぐらい。
子育ても終わり,子供達もどこかで独立して生活するも,地元には,簡単に戻れない。よって,子供が少ない地域となる。
こんな町は,全国に多い。
まして,コロナ禍という戦後初めて経験する重大事態(生命の危険がさらされる状況)に,日本中,いや,世界中の人々が,必死で対応を迫られている。
細菌学の専門家が会議の中で意見を述べ,結論を「提言」として,政府に進言しているように見える。
多様な施策がとられたが,教育関係について,耳にしたことは,
「学校は,3月2日から休校に入り,卒業式や入学式を,しないままに,新学期を迎え,新しい友達と1度も,あいまみえることなく,
ゴールデンウィークを過ごし,このまま5月の末日までいきそうな気配である。
その間,なんと3か月,児童生徒,学生は放り投げられている。
「うがい,手洗い,マスク」などと,「めんこい」ことを言っていたまでは,よかったが,
「三密とか,2メートル,ソーシャル・ディスタンス」などなど,毎日の生活の仕方の,基本的「ノウハウ」まで言及されたのには笑ってしまう。
されど,5月5日現在,日本の感染者数は15980人,死者は569人であり,不安は尽きない。
世界は,米ジョーンズ・ポプキンズ大のまとめによれば,5月4日午後5時現在,感染者350万8566人,死者24万7531人となっている。
米国の感染者や死者が圧倒的に多く,スペイン,イタリア,英国,フランス,ドイツと続くが,ドイツの死者が非常に少ない。
その理由は,中国の「少ない理由」とともに,後で,考える。
だいたい人類(人間)は,「初物」に弱い。経験がないので当然なのだが。3.11の地震,津波の時も悪戦苦闘。
ウイルスと違ってある程度体験してはいたが,その規模の大きさが異なり,多くの人々は戸惑った。
加えて原子力発電所の爆発では,たまったものではない。もう,お手あげである。
相手が,見えても,見えなくても,我々はほぼ無力だった。特に10年近くたっても原発問題の具体的解決策が見えてこない。
(オリンピックどころでない。)
さて,「こどもの日」に寄せて
「こどもの日,おめでとう」を言いたい。
日本にいる子供達に。そして世界中の子供達に。
「おめでとう。」
たまたま,あなた達はこのような時代に遭遇した。
私達,大人が(人類)があまり経験のない状況(新型のコロナウイルスなる細菌が地球上の人間を襲っている)に困惑し,
必死でたたかっているときにです。
運がない,と言えばそうかもしれない。
しかし,見えない敵と戦うことは容易ではありません。これからも長く,苦しい戦いが,続くと思われます。
今世界中の,日本中の大人たちが,頑張っています。一人でも多くの尊い命を守るために,昼も,夜もなく,献身的に働く人が大勢います。
特に,医療従事者(医者,看護師,介護士,福祉士など)は命がけで取り組んでいるのです。
みんな,使命感をもって頑張っています。感染者を少なくするために。
新薬の開発をめざして。できる限り感染者を増やさないために,奮闘しています。
これらは,明日を創ることであり,未来への挑戦なのです。
私達の祖先は,皆このようにして生きてきました。無論,不幸にして,沢山の犠牲者を出すこともありました。
「明日を拓く」「未来を築く」ことは,実は,あなた方(こども)を守り,育てることなのです。
今,あなた方は,とても不自由で,不愉快な時間を生きています。
「手を洗え」「うがいしなさい」「マスクをせよ」から始まり,「3密はだめ」,
さらに卒業式も入学式もなく,3か月も学校が閉ざされ,行き場を失ったあなた達。
大変なストレスをかけられたと,思います。仕方がないのです。少しだけついてなかっただけです。
長い,長い人類の歴史のなかで,こういうことは,時折起きています。耐えることです。我慢をして,時間を過ぎるのを待つのです。
一応先輩である,われわれ大人の言うことに耳を貸してください。少し冷静になって,短気を起こさないことです。静かに周りをみてください。
焦ったり,あわてることはありません。
このような,非常事態が発生した時に心がけたいこと。
(1) 大人の動きをみる。
(2) 両親から話を聞く。(今後,どうすべきかを冷静に話し合う。)
(3) 学校の情報を多く集める。(信頼できる友人と意見交換)
(4) 休校中に,自分がせねばならないことを洗いだす。
① 長期的スパン
② 短期的目標
(5) 考える力(思考力)を鍛える。
読書に始まる。どんな本でもいいので,どんどん読もう。読み終わったら,「気に入ったところ,気になったところ,気づかされたこと」を1行でも,2行でいいので,書いておく。
(6) 想像力を高める。
体に不自由さを持っていたり,弱い部分をもっていたりする友達のことを,考える。自分がお手伝いできることを1つだけ書く。
(7) 創造力を培う。
絵を描く。工作をする。楽器に触れる。歌を歌う。好きなことを突き詰める。パソコンで遊ぶ。文章(小説)を書く。
(8) 友人と交流する。
パソコン。スマートフォン。メール,お手紙,たまには,直接話す。自然のなかで,何人かで語る。
(9) 「いじめ」や「不登校」になっている友に,思いをはせる。
手紙を書く。メールをする。
(10) 身体能力を高める。
走る。ウォーキング,ストレッチなど,自分で考え実行する。
(11) 精神性を高め,タフな自分にする。
頼もしい自分にしないと,生き残れない。希望を捨てず前進。
創意,知恵が生み出せる人間を目指す。
子供のころの遊び
私ぐらい子供の時に,遊びにすべてをかけ遊んだ子供を,知らない。
パッタとチケット。「パッタ」のことを東京では「めんこ」というのだそうだ。
パッタの友達とは,とにかく勝負を競った。ほとんどの友の「パッタ」は私の物になった。友の財産はなくなり,相手はいなくなった。次は,「ビー玉」遊び。これも「パッタ」同様私の一人勝ちで,相手がいなくなった。釘遊びがあったが,やや危険なので,極めないで止めたことを,覚えている。
今分かったことだが,チケットは長方形の形で,電車のチケットに似ているので,「チケット」と呼ばれたことは,納得。
「パッタ」とは,技術的には,風の吹かせ方にコツがあったが,「チケット」は違った。
たこあげなどは,正月などの季節限定でなく風を見て揚げて遊んだ。ひもの長さだが,50m,時に100mを超えるときがあった。電線に引っかかればアウトである。そこが技術である。
ゴム跳び,陣地とり,たが回し,竹馬遊びなど,次々に遊びは,変わっていく。
缶蹴りは単独の遊びなのだが,「ここ」という遊びと組み合わせで,楽しんだことを覚えている。「ここ」は走力がつく遊びである。直径1メートルの円に放射状に線を入れ,その中に場所名を記入して,やや遠くから「石」を投げ,入ったところに行かねばならない。厳しいが,体力がつく遊びである。
小学校の中学年,高学年に夢中になった遊びは「コマ遊び」と「バンド野球」である。
冬は道路に水を撒いて「スケート」である。
「コマ」は北三番町に駒屋があり,角材や丸太を持参すると,私の好みの,けんかこま,を作ってくれた。勿論芯棒は,すぐ減ったり壊れたりするので,何本も作ってもらった。私は,ケンカコマ,が得意だった。ただしこの遊びの掟は厳しかった。途中で本人が中座するときは,どんな理由があろうとも,参加者全員による「ドンづき」の刑罰があり,駒は,めちゃくちゃに破壊された。子供の世界にも,厳しいルールがあるのだ。
ゴムまりを使ってのバンド野球は楽しかった。バットは「竹バット」であり,路上に三角ベースを作り,ほぼ,毎日やった。軟式野球は,グローブが必要であり,それは,誰も金がなくて無理。しかし,軟式に移るまでの,準備期間にはなった。
春,夏,秋は,学校でも家でも「野球」で,冬は「スケート」に興じた。
冬,学校では,教室の中で「馬とび」で遊び,足,腰が鍛えられた。今,振り返ると,大けがのリスクが,潜んでいた。もうひとつは,「相撲」である。S君が,強かった。いい勝負をしたが,彼の方が強かった。M君も腰が抜群に強かったことが,記憶に残っている。
忘れてしまって,書き残した遊びも,もっとあるはず。
とにかく,私の小学校6年間は,夢中で遊び,夢のような,楽しく,充実した時間であった。
勉強のことは,何を習い何を学んだのか,記憶にはない。
(2020年5月14日)
不登校問題試論
■ 推定100万人とされる,引きこもり・ニートの大問題
昨年(2020年)の10月24日の朝日新聞によると,宮城県の中学生の「不登校率」が5.1%(全国平均3.94%)と高く,この数字は,4年連続で全国最下位とのこと。小学校,高校についても全国の最低レベルにあることを,テレビも全国放送で伝えていた。衝撃であり驚いた。朝日新聞県内版は,小さく取り上げ,専門家とも思えない人の談話を載せていた。以下,その方の話。
不登校の要因は?
1 教育的要因 - 学習が追い付かない。
2 心理的要因 - 思春期の体の変化や大人になることへの不安を抱える。
3 福祉的要因 - 貧困で家族の機能が果たせていない。
記者がこの程度の記事で締め括っていることに,私は憤りを覚え,茫然とした。
記者の方を責めているのではない。地元に,東北大,宮城教育大を始め,大学も沢山あり,学者,専門家も大勢いるのに,誰にも相談や意見を求めることもなく軽易に記事にせざるを得なかった新聞社に,問題を感じるのだ。
「コロナ禍」にあって話題が時宜を得ていないというのだろうか。
しかし,宮城県民にとっては深刻な問題である。せめて,県教委か現場の学校からの談話やコメントを,そして県民の声などを載せることができなかったのか。
テレビやラジオでも,何の情報を流すこともなく終わっているのだ。
私には,宮城県や県教委は県民を舐めている,馬鹿にしている,としか思えない。
■ 不登校の社会現象化
不登校が社会現象化してきたのは1990年頃のことである。
少なくとも私が,小,中,高,大の学校生活を送った時代には,登校拒否,不登校なる言葉もなく,もちろんその行為もなかった。そして教師になって10年はなかったような気がする。
私が子どもの頃は,家族の突然の不幸とかお祝い事でもない限り,「学校は行くもの」「行かねばならないもの」と,誰もが思っていた。その考えに対する異論や反論を聞いたこともない。いわば,絶対的(この言葉は使いたくないが)と言ってもいいくらいの「価値観」であった。
不登校が始まり,珍しくなくなった頃,15年ぐらい前だろうか,「行きたくないなら,行かなくてよい」に,世の中の常識,価値観が変わったのである。不登校が病理化し始めたのだ。
不登校が定着するまでは,教師は電話をかけまくり,毎朝,迎えに行くことが常態化していた。家庭にあっては,家族,特に,母親と子どもとの「行く」「行かない」のバトルが繰り広げられた。古いと思われる価値観と新しい価値観との抗争でもあった。「いやなこと」「したくないこと」は「しなくてよい」となり,容易に「拒否することができる」時代になっている。
いま,公的にも,民間でも,不登校の児童生徒を受け入れる「居場所」が増えてきている。が,そこにも行かない子どもたちも多い。政府の調査によると,「引きこもり」「ニート」の数は,10歳~39歳が40万人,40歳~65歳が60万人と推定されている。併せて100万人を超える人々が,仕事にも就けず,極論を言えば収入もなく,所得税も払うことができないでいる。このことは,この国の「社会保障制度」の維持のみならず,国家経営戦略上,若者の人口減少ともあいまって大きな課題である。
■ 不登校,引きこもり,ニートの原因を敢えて論ずる
不登校,引きこもり,ニートの原因を一緒くたに論じることは短絡的に過ぎると思われるが,敢えて論ずる。
不登校が,単に学校の問題であったり,家庭内の問題としたり,本人の問題ととらえる人も多い。あるいは,それらの複合問題であったり,化学反応の結果ではないかと推論したり,と多様な研究がなされてきた。しかし,「これである」という明快な「原因」が見つけられず,よって有効な解決策もなく現在に至っている。私は,当たり前のことだが,不登校,引きこもりの「因」は千差万別であり,その対応や解決策も全員異なると思っている。
難しい挑戦だが,「不登校の遠因」を私なりに探ってみる。
70年前,50年前,30年前,10年前と今(2021年)とでは,社会の在り方がかなり違っている。劇的な変化を見せている。
(1) あらゆる情報や人,モノ,金が一瞬で国境を超える。(グローバル化)
(2) 地球温暖化へ対応,突然の温度変化,豪雨,冷夏(脱炭素社会への動き)
(3) IT革命の進展(PC,スマートフォン,テレワーク,リモート,コントロール,ゲーム)
(4) 産業構造の変化(第一次,第二次,第三次産業の就業者数の激変,非正規社員の激増)
(5) 少子高齢化社会の進展と人口減少社会(若者の激減,高齢者の増加,社会保険制度の維持)
(6) 家族構造の変化(核家族化の進展,老齢世代の激増,離婚率の高さ,8050問題・7040問題)
(7) 自然災害の頻発(阪神淡路大震災,東日本大震災,熊本地震,各地の豪雨被害,コロナ禍の発生)
(8) 多様化,多様性の時代(人種,性別,貧富の分断,多様な性・LGBTの時代)
(9) 経済的格差,分断の広がり(子どもの貧困,こども食堂)
あまり冴えない頭で,「社会」を変えていくと思われるポイントを列記してみた。もっともっと大きな視点があるかもしれない。
次に,家庭に見られる「製品」に焦点化して,その変容をみていきたい。
例えば,我が家に固定電話が入ったのは昭和35年ごろ。それまでは70mも離れた郵便局にお世話になっていた。テレビは昭和39年だったのでは。東京オリンピックのはず。上皇が皇太子時代のご成婚もこのあたり。洗濯機,電気冷蔵庫もそのころだったはず。
私が教員になった昭和41年。教職員30名規模の栗原郡の中学校で,「車」の所有者はたった一人。ちなみに私の給料は2万円ぐらい。7000円の下宿代で生きていた。そのころ,中学校の卒業生の4割から5割は「金の卵」などと呼ばれ,関東・中京方面に「集団就職」していた。石越駅まで見送りに行ったことを覚えている。そのころの印刷物(勿論,試験問題も)は,ロウ原紙に鉄筆で書き,謄写版で印刷。腕を競い合ったものだ。家庭訪問は自転車か徒歩で,遠い田舎道を歩いた。ほとんどの家庭は3世代同居で,子どもたちも素朴で素直であり,先生に反抗するなど,よほどのことがない限りなかった。
その後,私は塩釜の離島(浦戸諸島)に転任して,夢のような,牧歌的な3年間を過ごした。123名の全校生で,明るく,実直な子が大半で,我々教師はまだ,尊敬の対象だったと認識している。松島湾の「海苔」が高値で売れ,海苔業者は御殿のような家を建て,鼻を高くしていた。当時,池田首相が「所得倍増計画」をぶち上げ,それがほぼ実現し,昭和45年頃の私の給料も5万円ぐらいだった気がする。経済は右肩上がりだった。
■ 昭和45年-転機の年
昭和45年は忘れられない年になった。
一つは,新左翼の学生軍団が「ゲバ棒」なる角材を振り回し,極左の内ゲバ集団との抗争に明け暮れていた。
結局,連合赤軍なる「セクト」があさま山荘を占拠し,警察及び確か自衛隊まで出動して鎮圧した。
連合赤軍は,「総括」「粛清」の名で,10名以上の仲間の「いのち」を奪った。
この一部始終は放映されたので,大多数の日本人は「リアルタイム」で目撃したはず。
私はこの瞬間が一つの「ターニングポイント」だと思っている。
「政治に関わらない」「学生運動には関わらせない」「政治に関心を持たせない」,これらは暗黙の了解事項として,大人たちに浸透していった。
この事件以降,学生を中心にした大規模な政治活動やデモなど起きていないし,見たこともない。
浅間山荘事件の残虐さと壮絶さの衝撃が,いかに大きかったかを物語っている。
以来何度も,最近も,「このごろの学生は,若者は,政治や選挙に関心がない」「無関心・無反応だ」という嘆きを耳にすることになる。
その都度,私は昭和45年のあの事件を密かに思い出していた。
もう一つの昭和45年の思い出。
親友のY君とユーラシア大陸一周の旅を決行したことである。詳細については別稿に譲るが,当時のソ連から入り,スカンジナビア半島を巡って,北西ヨーロッパから南ヨーロッパをおよそ50日間で巡る旅であった。ほぼ,世界の首都廻りであったが,私の人生においては,開闢以来の大冒険であり,人格形成や知見に多大な影響を及ぼすこととなった。
この旅行の目標の一つに「ソ連」を見つめることがあった。驚くことに,当時のソ連の所得格差は最も富める者とそうでないものの差は,何と4倍しかなかった(政府の流した情報ではあるが)。1970年のことである。それが1991年のソ連崩壊時には1000倍になっていたことに,驚きもしたが,納得。その2年前の1989年,ベルリンの壁が崩壊し(東西ドイツ統一),東ヨーロッパが雪崩を打つように資本主義社会になっていった。その様を目の当たりにすることは,ソ連の崩壊と同様に「ありえない」と決めつけていた自分がいて,信じがたい歴史的事実だった。私の中の「絶対」が逆転した。
海から山への私の転任癖は収まらず,蔵王の麓・遠刈田へと向かう。温泉地,保養地にもかかわらず,子どもたちは,いつも明るく,純真な子どもたちであり,こけし業などを営む商店街の子弟と酪農家の子どもたちが多かった。勿論「不登校」など全然なく,教師に刃向かう子等も全くなかった。
昭和49年3月に結婚,再び転任。石巻市の僻地,小竹浜へ。小・中併設校。一学年8人とか,11人の少人数学級であり,指導力を鍛え情熱をもって当たれば大きな成果が実現できることを実証できたことは,素晴らしいことであった。教育(学び)の原点に触れ,充実した2年間であった。世間で芽を出し始めた子どもたちの反抗とかとは,無縁の「二十四の瞳」的,夢の世界であった。
■ 中学生の「荒れ」の顕在化
次に転じたのが,名取市の千名を超える「マンモス校」であった。
昭和49年,50年あたりから,全国の中学校の「荒れ」が問題になり始めたのである。
その何年か前から,全国的規模で団地を開発し住宅を作るという「大ブーム」が起こっていた。
不動産会社,住宅会社,電力,ガス,水道というインフラ整備に始まり,車産業やスーパー,その他の業種まで巻き込む国家的プロジェクトが始まっていったのである。
そのような,右肩上がりの経済発展が進められ,様々な電化製品が売り出され,購入され,「もの」で満たされる「豊かな社会」の基礎が形成されていった。
名取市でも新興団地がつくられ,ややあか抜けた感じの子どもたちが地元の農家の子弟たちの中に混在し,諍いを起こすことも増えてきた。
各学年に10名程度の軍団ができていった。昭和55年,56年ごろには,先生方に反抗する生徒も若干現われ始めた。
昭和57年,58年頃は「中学生の荒れ」「荒れる中学生」なる見出しが,全国紙の社会面を飾ることが頻繁になった。
このころ,「郊外の地に一戸建てを持ち,家は電化製品であふれ,中心街にマイカーで通勤する」,でなければ,「高層アパートやマンションに住む」という価値観が広く一般的なものとして広まっていった。
三世代同居から一気に「核家族」へと加速した時代でもあった。
同時に,「豊かな家庭を手に入れるためには,懸命に勉強して,いい高校,レベルの高い有名大学に入る,そして,有名企業,大企業に就職することが肝要」,
そのような進路に関する価値観が,多くの大人たちから支持され,子どもたちにまで浸透していった。
都市部では,放課後,「学習塾」に通うことは当たり前のこととなっていった。
昔から受験はあったのだが,「受験戦争」「お受験」等の言葉が生まれたのもこの時期である。
このような受験体制についていけない子や落ちこぼれていく子も沢山出てくる。競争に勝つか負けるかの世界なのだ。
このような状況についていけるタフな子どもばかりではない。
「落ちこぼれ」は大量生産され,家庭内で暴れたり,学校で「友達をいじめたり」「教師に反抗」したり,「校舎を破壊」したりと,ストレス発散が頻繁に起き,「荒れる中学生」のヘッドラインが新聞に踊った。
特に中学校では,校内暴力,校舎破壊,落ちこぼれ,いじめという用語は,市民権を得ていった。しかし「不登校」はまだない。
昭和57年,荒れる学校状況のなかで,私は,亘理郡の海岸部にある小規模校に異動した。
暴力,いじめ,窃盗,喫煙,シンナー,校舎破壊,他校との抗争,などあらゆる非行が,現実に起きていた。
私の体当たりの指導が全開せざるを得ず,ほぼ2年で峠を越え,正常化した。
50キロを歩く会,文化祭等の学校行事を中心に学校の変革に取り組んだのだが,ある程度功を奏したと思われる。
しかしこの状況でも「不登校」はさほど顕在化してはいなかった。
8年という長きに渡って勤務したが,時代は昭和を終え平成を迎えていた。
■ 不登校の出現
平成2年,再び蔵王の遠刈田中学校に転じた。教頭としての勤務である。1990年のことである。
日本では1987年の国鉄民営化,1989年はバブル経済の崩壊。1989年天安門事件,1990年ドイツ統一,1991年湾岸戦争,ソビエト連邦解体,
と日本も世界も,歴史的,革命的変化を見せており,このような劇的な社会の変革は,多様な分野で価値観の転換を迫った。
学校内文化ではワードプロセッサーの普及,ファックス原紙印刷機,コピー機の一般化。
平成に変わった1900年頃,「不登校」の生徒を初めて発見。
私は何度も家庭訪問し,本人に登校を促したが,自己表現が苦手で,学習も遅れがちであったが,「学校に行けない」事由を理解してあげることができなかった。
そのことが,今でも心残りである。
全国に視野を広げると,平成の頃(1990年)から「登校拒否」「不登校」が毎年毎年その数を爆発的に増やしていった。
私が亘理中学校に異動したころ(平成4年~6年),パソコンがかなりバージョン・アップし普及していった。
500名程度の学校で5~6人の不登校者が見られたと記憶している。
その後,校長となり仙台市内の郊外にある小さな小学校に2年,さらに名取市の新設小学校に2年勤務した。
「なぜ,自分が小学校なのか」わからないまま「楽園」のような学校に,自由に楽しく勤務した。
中学校で働く仲間に「申し訳ない」と思いながらの勤務であった。
4年間で,小学校の教育課程,在り方,人事の考え方,児童の様子,発達段階等々を学んだ。
妻を平成6年に亡くしたのだが「喪失感」や「孤独感」を醸し出す私の周辺は,気の遣いようが大変だったと思う。
一方,世の進展は,激しく「パソコン」の普及,「携帯電話」そして「インターネット」の出現によって,「ネット社会」の出現,
「ホームページを開設する」「メール」での連絡の常態化,等々で「ネット社会」「デジタル社会」へと,
さらにAI社会へと進化が止まらない。
その間にあって,学校文化も様変わりし,学校から発信される印刷物はパソコンでなされ,
時には,ネットやパソコン,スマートフォンで伝送され,家庭や役所,市内の学校に配信されるようになった。
小学校長としての4年間の在任中,小さな痴話喧嘩はあったものの,不登校や大きないじめはなかった。
平成10年(1998年),名取第一中学校へ異動。
世界の動きは,2001年アメリカの同時多発テロ,2003年イラク戦争,2002年公立学校完全週5日制がはじまる。
学校は中規模校で,噂にたがわず20名程度の指導上配慮を要する生徒がいたし,29名の不登校生徒がいた。この学校が私の現役最後の4年間となった。「自分の総力を挙げ,全力投球で燃え尽きよう」と決意を新たにした。私の使命は「どの子も,毎日,明るく,楽しく生きられる学校」を一日も早くつくることであり,「不登校」を「ゼロ」にすることであった。
2000年頃から約20年,「不登校」は,爆発的に増加の一途をたどり,「いじめ」も,その質・量とも大いに変容し,ネットやSNSを使ったり,陰湿性や残虐性の度を増している。
資本主義の進展,あるいは,中国のような共産党一党独裁国家の発展は,地球規模で国際的な影響をもたらす。その影響力は凄まじく,国家レベルで一つの国の在り方さえ変えていく。例えば,ある国の経済,行政,社会の在り方さえ変えていくのだ。勿論,国が変われば,地域社会,地域団体,大企業から中小企業に至る組織まで,変容を迫られる。そして,ついには,学校や家庭にまで反映してくる。
私が,「不登校問題」をとらえるのに,かなりの時間とスペースを使い,「世界の出来事」「日本の出来事」などを比較的丹念に描いてきた理由が,少しは分かってもらえると思っている。
学校で起こる暴力事件,いじめ問題でも,そのことが全国共通で発生するときは,必ず,そこに至らしめる「背景」があると思っている。
戦争,大きなテロ,地震などの天災,学校週5日制,コロナの発生等が関係してくる。
人間(大人も子どもも)の生き方が規制され,制限されてくる。
もちろん,現在はネット社会,デジタル社会であり,世界の情報は瞬時に集まる。
会議はオンラインで即行われ,結論や決断は必要者のスマホに流れていく。
■ 「不登校」問題の解決のために - 県レベルの対応
「不登校」の占める割合の全国1位が4年も続いている。このようなニュースが流れても,県知事,県議会,県の教育長の意見や談話も,一切聞かれない。まず,トップとしての問題点がそこにある。3年も4年も最下位が続いたら,大問題であり,即,専門家や関係者を集め,広く意見を聞き,問題点を整理し,対応策を講じなければならない。
知事がすぐやらねばならないことは,自分の知見と認識を示し,教育長に「対応策を練り,全県下に伝えよ」と命じること。
それを受けて,県教委の担当者が,市教委や町村教委と確実な連携を取り,さらに,現場の校長・教頭との丁寧な意見交換を行うこと。そのような取組から得られた「問題解決の方針と具現化の方策」を,全県下に分かりやすく伝えること。対応と取組の在り方が明確になったら,それを現場に下ろしていくこと。
いずれにせよ,どのポジションにあっても,「担当者の本気」がなければ,何も伝わらない。伝わらなければ,成果は上がらない。
学校に行けなくて苦しんでいる子ども,居場所がなく悩んでいる子ども,頭を抱える親たちの本当の辛さや苦しみに気づけない人材ばかりが,トップ及びその周辺に居続けるなら,課題は永遠に解決しない。
この4年間,あなた方は「不登校対策」で何をしてきたのか。
私が心配になることは,知事や教育長が教育問題に関心があるのかということ。
■ 「不登校」問題の解決のために - 校長の対応
(1) 校長として,思想,信条を明確にする。
どのような学校にしたいのか。どのような生徒にしたいのか。
(2) 教員の本質的使命感
熱意,思いやり,寄り添う心(実行力,決断,使命感を忘れるな)
生徒への向き合い方,授業の方法,授業の形(時代の変化,変貌によって改革や改善は避けられない)
(3) 本気
恥ずかしながら,私の拙い実践を紹介しながら,話を進める。
名取市立第一中学校の校長として赴任してすぐ,29名の生徒に手紙をしたためた。
「学校は,いつでも,あなたを迎える準備ができています。何時でも,どうぞ来てください」。
その後4年間,時間と機会を見つけては,担任や主任と家庭訪問を試みた。「校長が校内暴力や不登校の最前線で行動することはありえない」などとする考え方もあるのだが,私は,名誉,地位,組織論云々は,どうでもいいと考えている。今,困っている子がいるのだ。今,悩んでいる子がいるのだ。その子どもたちの少しでも役に立ちたいのだ。そういう家庭があれば,相談に乗ってあげたいのだ。私は,「本気」だった。結果,定年退職時,不登校生徒は7名になった。残念ながら,「ゼロにする」という目標は達成できなかった。私の努力不足である。「本気」が足りなかった。
■ 私の勝手論
校内暴力,対教師暴力,いじめ,不登校,不純異性交遊(ママ活,パパ活)等の背景は深いし,複雑である。世界的変化や驚異的に変貌する日本社会の潮流の中で,物質的欲望を満たすための消費者行動は,一時下火を見せたが,基本的には豊かな社会を追いかける日本人の行動と,物で豊かになり幸せを感じる価値観は依然として健在であり,熾烈な受験競争と勝者・敗者の生き方,正規と非正規の分断,核家族とシングルママ・パパ,ネット社会,スマホとデジタル化が進展する中で,「速い」こと,「効率的」なこと,「かわいい」こと,そして「面白い」ことなどの,軽薄な価値観が共有され,マスコミは完璧なまでに視聴率に支配され,朝から夜中まで馬鹿な連中に乗っ取られ,堕落の一途をたどっている。NHKなど見る影もない。
私のこれまでの経験から言えることは,「いじめ」が「不登校」の有力な因と思っている。不況,競争,効率,分断,非人情,お笑いなどが社会に蔓延し,逞しい精神性(タフネス)がないと生きていけない。相当の訓練を積んだ大人でさえ,生きることが難しくなっている。そのような状況は,即学校に反映し,子どもたちの息苦しさを作り出している。互いの苦しさの行き違いやぶつかり合いの中で,「いじめ」が生まれることも多い。
もう一つ。これは少し言い難い事なので,これまで言及しなかったのだが,学校で「いじめの対象」になったり,「いじめを見つけて悩んだり」,深刻に考え「自殺」に及んだりする子どもたちに,ぎりぎり共通項を見つけようと,私はしてきた。大勢の子どもたちは「きわめて真面目」であり「純粋,純朴」である。自分ではぐくんできた「正義」と学級とか学校が作り出す「文化」や「空気」,そして,そこでの「正義」なるものが,とても不条理に感じられ,耐えられなくなっていくのではないか,という結論を私は持っている。どうしても,そのような子は単線型思考から抜け出すことができず,悩みの深淵に落ちていく。大人でも引きこもったりする人々の多くは,いわゆる「いい人」が大半である。
戦前は「強制」という圧倒的抑制作用の縛りがあり,「盲従」「隷従」しかなかった時代だったが,今という時代は,多様な抑制,制限,義務のようなものからの「解放」,つまり,人間の根源的自由の中での振る舞いが,一見,タガが緩んでしまったような様相を呈している。しかし,これを長いスパンで見れば「そんな世紀もあったよね」で語られる,振り子の揺れ具合と思っている。
さて本論に戻ろう。いかにして子どもたちを「いじめ」から守ってやれるか。「いじめ」から解放してやれるか。このことは大きな教育問題である。その解決は「不登校」の解決にもつながっていく。
しかし,いかに理論や理屈をふりまわしても,解決の最大の力は「本気」である。「本気」でなければ何も成し遂げられない。
(2021年2月1日)
中学教員の給料を小学校の1.5倍にせよ
中学校の激しさと怖さを知る人は,絶対に中学校に異動することはない。
赴任先の学校が少しでも荒れていたり,課題を抱えている場合,大学を出たばかりの新任の言わば「王子様先生」「お嬢様先生」は,「センコウ」とか「ババア」「クソババア」などと,汚い言葉で罵られ,呼び捨てにされる。
一日に何十回も罵られ,それに慣れないと一人前にはなれない。
そんな呼ばれ方をしたことのない「新任」は,驚き,ショックを受ける。神経症を患う者もいる。
小学校の新任教師がそんな「洗礼」を受けることは,よほどのことがない限り,ない。
中学校は,そこから始まり,授業,給食,掃除,帰りの会,そして部活動という日常の指導から生徒指導に至るまで,ひとつも気が抜けるときがない。
小学校では,5年,6年では例外もあるが,児童は教師の指導の下に入る。
中学校では,教師が信頼に足る何か,尊敬に値するものや力をもたなければ,誰も,言うことを聞かないし,従わない。
先生方は,常に必死で,息を抜くことなどない。
否が応にも新米教師は成長し,大人になっていく。
小学校にいたのでは,中学校の本当の厳しさや本質も知ることなく,教員人生を終える。
これは,日々,自らの生命の危険をかえりみることなく,懸命に治療に当たるコロナ対策チームの医師団に似ている。
一方現場の厳しさも知らないコメンテーターが,テレビに出まくりへらへらしゃべり続けるパターンに似ている。
役割分担とはいえ,ひどいものである。世の中は,そのように回ることが多い。
とにかく,中学校の教員の待遇を小学校のそれの1.5倍にせよ。
これが,私の持論である。