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我らが熱血教師・阿部哲男

栗駒町立尾松中学校

教 諭 (昭和41年04月~昭和44年03月)

■ 栗原は初任地

「あなたは,なぜ,教職を選んだのですか?」
目の前の面接官からこのように問いかけられた。
「人が社会を作り変えていくという考え方(哲学)を実践したいのです」
「あなたは,社会変革者ですか?」
ときた。
「子どもは未来からの使者だと思うのです。その子ども達に,昨日より今日,今日より明日が少しでもいい日であるように,夢を一緒に作っていきたいのです」
と答えた。

そして尾松中学校です。学校の裏山(屯が岡)に八幡さんがあり,そこから見える尾松の田園風景が絶景で,私にとっては,夢に見た光景であった。反対側の斜面にリンゴ園やスイカ畑があり,生徒と一緒に何度か御馳走になったことがあった。

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熱血教師・阿部哲男が教師としての道を歩み出した尾松中学校での思い出は,上の一文から始まっています。
もともと高校の社会科の教師を志望していましたが,当時社会科の採用枠は1名のみであり,親友のY氏が1番手,阿部先生は2番手に甘んじたといいます。
採用通知時に「中学校でもよいか」と問われ,1も2もなく「お願いします」と応じたとのことでした。

上の一文の面接の場面は,赴任地を決定する3月の面接時のやりとりでしょうか。
こんな純粋な気持ちで教職に就き,その気持ちを終始持ち続け,生涯貫き通した阿部先生でした。
その事実の重み,尊さをあらためて感じています。

柳行李一つと布団袋を持って,新任教師として尾松中学校の門をくぐったのは,春まだ浅い4月初めのことでした。
下宿先が決まっていなかった先生は,教頭先生のお宅に泊めていただき,大いに歓待していただきました。

阿部先生は若くてスポーツ万能。出勤すると職員室に向うことなく,校庭でサッカーに興じる生徒たちにまじり,人一倍ハッスルの毎日。
出勤簿の押印や職員の打ち合わせは二の次なのです。
なんとも型破りな熱血先生の誕生です。

学級づくりも半端でなく,当番活動や係活動,そして朝と帰りの会はきっちりやらなければ気がすみません。
他のクラスの帰りの会が終わるころ,阿部学級の「今月の歌」が始まります。青春の歌あり,英語の歌あり,バラエティ豊かです。
阿部先生の専門教科は社会です。しかし,英語の授業も担当しました。
1年目にして,しかも免許外の英語で,当時の「栗原郡教育研究協議会」での公開授業を引き受け,最先端の授業として絶賛を浴びたのだそうです。
ESSで鍛えた本格的な英語で,ほぼオール・イングリッシュで行った授業は,栗原郡の先生方にとって異文化との遭遇に似たものだったのかも知れません。

阿部先生が尾松中学校に着任したその年,私(編集者)も同じ栗原郡の若柳中学校に入学しました。
尾松中学校の1年生と若柳中学校の1年生は,同じ時代に全く異質の英語の授業を受けていたわけです。
阿部先生の話をいろいろとご自宅でうかがっているうちに,そんな偶然に気づき,不思議な縁を感じたものです。


塩竈市立浦戸中学校

教 諭 (昭和44年04月~昭和47年03月)

春先の人事異動で学校を去る教員を,次の異動先まで同僚や保護者が送っていく。
--阿部先生が教職の道を歩み始めた昭和40年代までは,こんな麗しい慣習がありました。
浦戸中学校へは,同僚の今野先生と菅原先生が,わずかばかりの引っ越し荷物を車に載せて,送ってくれたそうです。
塩釜に向かう道すがら,

 「阿部先生,なんでわざわざ船に乗って行がねげねぇような島に行ぐのっしゃ」
 「いやいや,『山の次は海に行く』と自分で決めたことだがら」

こんなやりとりが繰り返されたと言います。
その日はたまたま海が荒れていて,暗く白波が立つ海を前にしての別れとなりました。

時化のため,定期船は前の便までで,後の運航は取り止めとのこと。
赴任先での約束の時間が迫っていた阿部先生は,今で言う「海上タクシー」を借り切って浦戸に向かったのでした。
船賃は,なんと7000円!給料が手取り1万5000円足らずの時代に。定期便の船賃の100倍でした。嗚呼。
下宿代と多少の小遣いを手元に残して,給料の大半を両親への仕送りにしていた阿部先生に,余分な持ち合わせなどあるはずもなかったのです。
浦戸中学校赴任に際して尾松の皆さんからいただいた餞別の大半は,浦戸に辿りつく前に消えてなくなったのでした。

船の上で,封筒を一つ一つ開けながらお金を数える阿部先生の姿を想像すると,言葉のかけようもありません。

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■ 初のバレー部顧問

当時浦戸中学校の生徒数は123名,1学年40人程度であった。前任校で卒業生を送り出して転勤した私なのだが,また3年の担任になった。今でも初めて子どもたちにあった時の印象が忘れられない。全然ウエルカムの気持ちがないのである。「お前は何なんだ」「何しに来たのか」の感が強く,反抗的まなざしがほとんどなのである。
5月の連休が終わり,生徒との信頼関係がほんの少しだけできつつあった頃,生徒の1人が思わず口走った。
「バレーと卓球の専門家が,二人一緒に岡に上がったんだよね」
部活動は男女ともにバレーと卓球だけ。野球もサッカーもなかった。そのようなスペースがそもそもない。部活動が2種目に特化されているので,2つともレベルはかなり高い。私はバレーの顧問に決まっていた。スポーツは何でも好きな私なのだが,バレーは「女の運動」と勝手に決めていた私は,バレーをした経験が全くなかった。まずそこが信頼を欠く最大の原因であった。
私はパスの基本から学んだ。初心者の生徒たちに交じって懸命に練習した。サーブ,レシーブ,スパイク。持ち前の運動神経で約1か月で上級者並みになり,2か月もたたないうちに中学生のレベルをはるかに超える技量を身に付けるに至った。まだ,一部の生徒にはまだまだかなわない面もあったが。
小学生や中学生にとって「うまい」「すごい」と思うことが尊敬の始まりである。子どもたちは短期間で上達する私を見て驚いていたに違いない。
自慢話になるが,子どものころから朝から晩まで駆けずりまわっていた私は,足腰が鍛えられていた。強者ぞろいの友だちが沢山いたのだが,かけっこや遊びではほとんど負けることがなかった。遊びの天才少年(これも自称)だったのである。たとえ勉強が苦手でも,遊びでは負けない少年だったのである。
 ※ 「岡」とは,浦戸諸島から見て「陸地」のことを指して使うことば。

■ 校長官舎のこと

わたしが浦戸中学校に勤務した昭和40年代は海苔養殖が最も盛んな時で,多くの漁師は海苔養殖に携わっていた。海苔が「黒いダイヤ」と言われた時代である。
浦戸には3年しか勤務しなかったが,毎日が変化に富み,驚くことの連続であった。
赴任1年目の昭和44年は,校長官舎で校長先生との二人暮らしであった。斎藤校長は元陸軍の中隊長であり,戦後20年以上たった今もその陰を残す人であった。
栗原では賄いつきの下宿生活だったため,自炊をした経験がなかった。したがって,料理などできるわけもなく,毎日二人で悪戦苦闘した。仕事を終えて帰宅し,真っ先にやることはご飯を炊くことである。もちろん味噌汁もつくるのだが,出来上がった味噌汁は,鍋一面わかめが覆い,わかめをかき分けて鍋底に隠れた豆腐を探し出す始末である。二人とも,わかめは膨らむものだということすら分からなかったのである。
そんな調子で1週間が過ぎたころ,30m程離れたところに住む教頭先生とS先生が,二人の生活を見かねて,「夕食は4人で」と声を掛けてくれた。S先生の料理は並みのレベルではなく,常に1級品であった。
その後約1年そういう生活が続いた。教頭先生が転任し,S先生も塩釜から通うようになった。1年一緒に暮らした校長先生も仙台から通勤することが多くなり,官舎に泊まることは少なくなった。
2年目からは,野々島の区長さんの家にお世話になった。

■ 捨て犬のシロ

昭和40年代まで,学校には日直ならぬ宿直制度があった。
夏休み,特にお盆が近くなると,「阿部先生,頼むね」の一言で,宿直の肩代りを頼まれる。独身で若輩者の私は,断ることはできない。
結局8月10日から20日ごろまで連続で学校に泊まることになる。学期中は遊びにやって来ていた子どもたちも来なくなる。
誰も来ない。一日,二日は我慢できる。しかし,である。その後は本当に寂しい。たまに郵便局員が配達にやってくる。あるだけのお菓子を出して歓待し,帰らせない。とにかく人恋しいのである。
そんな時やってきたのが,「シロ」である。
彼は捨て犬である。岡からやってくる人の中に,飼い犬を島に捨てて行く不届き者がいる。「シロ」もそういう犬だった。
普段は民家付近に居たり,山の中に居たりして,子どもたちにまとわりついたりしているのだが,その時の彼には誰も遊び相手がなく,学校の私のところに辿り着いたのである。互いに寂しいもの同士である。犬嫌いの私も,三食を当てにしてついて回るシロに,自然に情が移っていったのである。

■ 離任

私が浦戸にいたのは,3年である。3月末日,島との別れ。


浦戸の人々との別れは,上の航路の順番を 06 から 01 まで 逆に辿った。

【朴島】
住民20人にも満たない朴島から別れが始まる。テープを何本か持たされる。「蛍の光」が流れる。私を乗せた浦戸丸が桟橋を離れる。寂しく,悲しい別れである。10分ほどで寒風沢の桟橋である。

【寒風沢】
見送りの人がかなりいる。50人は超えていると思われる。持ちきれない数のテープを持たされる。また,大音量で「蛍の光」が流される。涙がとめどなく流れる。
この寒風沢の桟橋と「亀ちゃん桟橋」の間を,何度往復しただろうか。「亀ちゃん桟橋」は,当時,寒風沢と野々島にある中学校を結ぶゲートウェイの役割を果たしていた。
船の操作がままならなかったころ,何度も朴島方面に流された。潮が上げている時ならまだしも,潮が下げている時は,外海(太平洋)へ流されたことも一再ならず。泣いて叫んで助けを求めたこともあった。操船の腕を上げてからは,そんなことはなくなったが。
思い起こせば,この桟橋は「命を繋ぐ梯」でもあった。当時,寒風沢にはスーパーが2軒しかなかった。衣食住に必要なほとんどの商品がそろっていた。ほぼ毎日,部活を終えた子どもたちを魯を漕いで送り届けたあと,その日の夜と翌朝の食糧を買い込んで「亀ちゃん桟橋」まで帰ったものだ。まさに命を繋ぐ「架け橋」だったのだ。
テープを握りしめながら,そんなこんなが走馬灯のように駆け巡った。桟橋を離れるにつれ,テープは切れていき,「蛍の光」も波のしぶきでかき消されていく。

【石浜】
船はちょっとだけ太平洋に出て,石浜に向かう。人口は少ないが,郵便局があり,桂島の中でも「石浜」というひとつの地区をつくっている。観光桟橋を中心に小規模ながらメインストリートが延びている。石浜では10人ぐらいの送り人があっただろうか。

【野々島】
その石浜から,向かい側にある野々島の桟橋付近が肉眼で見通せる。人の姿はまだ見えない。桟橋までは10分もかからない。野々島は私が3年間住んだ土地であり,親交を深めた家や人々も多い。物凄い人だかりの中でテープを持たされた。
「先生,元気で」
「お世話になりました」
「さよなら」
「遊びにきてね」
惜別の言葉が飛び交う中,「蛍の光」が鳴り,出航の汽笛がなる。
振り返ると,その日その時間に離任したのは私一人であり,ほぼ貸し切り状態であった。
夏,この桟橋から何度も飛び込んで遊んだこと。これから向かう桂島まで泳ぎ切ったこと。そんなことが脳裏をかすめた。

【桂島】
約10分強で桂島に着く。桂島は浦戸諸島の中では,知名度が最も高く「海水浴場」として県民にも広く知られている。島の北側に桟橋があり,そこから斜度20度位の登り坂が50mぐらい続く。その登り坂の両側に店や民宿,旅館などが並ぶメインストリートである。坂を登りきると視界が開け,見渡す限り太平洋が広がる。そこから30mくらいで海水浴場。坂の頂点あたりを左折すると,春なら,菜の花畑が一面に広がり,その斜面の頂上付近に小学校が見える。
見送りの人々の大きな歓呼を浴びながら,汽笛とともに桂島を去る。

【塩釜】
桂島から塩釜の桟橋まで25分から30分の船旅である。
3年間の思い出は尽きない。毎日毎日が新しい発見であり体験であった。もっと大げさに言うと,1時間1時間の積み重ねが豊かで,楽しい時間の積み重ねであったのだ。
基本的に料理も洗濯もできない,したこともないいい若者が,離島に放り出されたのだ。何とかなる,と思いながら,何ともならない日常であった。それでも,いつも誰かが助けてくれたり,カバーしてくれた。

今度の赴任地は蔵王町の遠刈田中学校である。私の飽くこと無き「好奇心」と「探求心」は,ワクワク感で次の舞台を待っている。


蔵王町立遠刈田中学校

教 諭 (昭和47年04月~昭和49年03月)

■ 独身寮のこと

48年前の話になるのだが,蔵王の麓にある遠刈田中学校に赴任した時の思い出の一端を記したい。
海の中,それも,離島にいた私が,また山に戻るのである。
海外への気ままな旅から戻った私は,ほぼ「フーテン」であり,まだ気軽な一人身であった。
当時の蔵王町には独身寮があった。遠刈田中学校の敷地に接して,プールの南にそれはあった。
寮には,蔵王町で採用された独身の先生方が住んでいた。
真ん中に食堂と流し(台所)があり,東側に女子,西側に男子の個室が,それぞれ6室ぐらい並んでいた。個室の広さは6畳ほどであった。
浅井さんという50代の女性が朝夕の賄いをしてくれた。
一つ屋根の下に若い男女がいるのだ。ときおり,恋,恋愛,失恋みたいなことが起こる。
今日は記さない。
(2020年4月15日)

阿部先生が遠刈田中学校について綴ったエッセイは,上の1文だけです。
専門の社会科に加え,担当した英語や体育の授業のこと。
部活動のこと。
生徒たちと一緒に何度も登った蔵王のこと。
そして,やがて奥様となる淑子先生との出会い。
3月中旬に校長先生がフライングで全校生徒に発表した,淑子先生との結婚とドイツ・デュッセルドルフの日本人学校への転勤のこと。
阿部先生も淑子先生も小学校の免許がないことが分かり,日本人学校への赴任が直前で頓挫したこと。
新天地が,ドイツから,急遽,石巻の小竹浜に変わり,悔しいやら恥ずかしいやらで,本人のみならず,職員・保護者・生徒一同苦笑いしたこと。
などなど。阿部先生が話してくれた遠刈田中学校でのエピソードは山ほどあります。

でも,阿部先生にとって一番大切な思い出は,やはり奥様との出会いだったようです。
ちょうどこの頃のことを書き留めた奥様の随想があります。紹介します。
阿部先生にも,奥様にも,許可はいただいてはいませんが,きっと許してくださると思います。

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■ 松島

阿部 淑子

遠刈田に勤めていた時のことである。松島へ海水浴に行く話が出た。毎日壁のような蔵王ばかり見ていると,無性に水平線が恋しくなる。その上,日本三景の一つで泳ぐのも魅力だ。即座に7,8人の参加がまとまった。
塩釜桟橋から,浦戸行9時発の連絡船に乗るように言われた。
翌朝は上天気,白石を6時50分に発ち,仙台からは電車で本塩釜へ。ところが,一つ手前の西塩釜で事故,とのアナウンス。再び電車が動き出したときには,8時50分をまわっていた。車内を駆け出したい気持ちだ。ホームに着くやいなや,走った。桟橋までは思ったより遠い。やっぱり船は出ていた。白波をけたてている後姿がうらめしい。ひとつ前の汽車にすれば,と思ったが後の祭り。
次の船は10時半。ここまで来て引き返すのも悔しいので,なんとか時間を潰した。やがて,窓口で切符を求めた。
「浦戸まで下さい」
「浦戸って,桂島,野々島,寒風沢,朴島の四つの島を言うんだよ。どの島?」
浦戸としか聞いていない私には,答えようがない。
「学校のある島だと思うんですけど・・・・・・」
「学校は三つの島にあるんだけどなあ」
あ然としてしまった。
「じゃあ,中学校はいくつありますか?」
「中学校なら野々島にあるけど,寒風沢で降りて,渡し舟に乗せてもらうといいよ。ホーホーと言えば,船頭さんが来るから」

やっとの思いで船に乗った。案外大きな船だ。言われたとおり三つ目の寒風沢で降りたが誰もいない。近くの店でたずねると,おばさんが「ホーホー,亀ちゃーん」と慣れた調子で呼んでくれた。どこからともなく小舟がスーッと現われる。向かいの島まで1分。学校は坂の上にある,とのこと。階段を降りながら振り返ると,湾内がキラキラして美しい。


学校はシーンと静まりかえっている。
「あのー,遠刈田から来たんですが・・・・・・」
「ああ,さっきまでいたんです。今は隣の浜で泳いでいますよ」
「船外機で行く所なんです」
「これからじゃ,無理ですか?」
「そうですね」
気の毒そうに言った。
「でもお昼には○○さんの家に行くって言ってましたから,そちらで待たれてはどうですか。ここからは一本道ですし」
カンカン照りのなか,トローンとした海を眺めながら,島の稜線をトボトボと歩いた。島全体が昼寝をしているのでは,と思うほど静かで,人気もない,程なく道は二つに分かれていた。迷ったが,ままよ,と左へ曲がった。すると,
「遠刈田からのお客さんですか」
と声をかける人がいる。これから伺うお宅のおばあさんだ。分かれ道で右折するのだそうだ。
一行を待ちながら,海苔やカキの養殖の話,ご主人が遠洋航海に出た時の苦労話などを聞いた。海の荒れる夜と,急な発病の時に,島の生活の辛さを感じる,と言っていた。
海から上がってきた皆は,いるはずのない私をみてあきれることしきり。早速,ご馳走がふるまわれた。魚を炊き込んだ美味しいごはんだった。 午後,いよいよ待望の海へ。船の時間までたった1時間の貴重な待望の海へ。けれど,一船遅れたお蔭で,思いもかけない松島の生活に触れることができたのだ。

◇    ◆    ◇

この度の文学散歩で思い出した,もう一つの松島です。あのときの親切な人たちの顔も浮かんできました。あれからもう十年以上経っています。

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石巻市立小竹中学校

教 諭 (昭和49年04月~昭和51年03月)

■ 小竹浜のこと

私はもともと,長距離を走ったり歩いたりすることが嫌いである。中学校時代にあった,学校から七北田大橋までの往復13キロの長距離走なんて,とんでもない。私が教師になったころは,長距離走の距離は,体育科の中では4kmか5kmと決まっていた。
人の何倍も時間がかかってしまったのだが,私が非常に遅い「自立」を果たしたと思われる時期は,教師になったころである。そのころから,自分の苦手のことや嫌いなことに,積極的に,前向きに「挑戦」しなければ一人前と言えないだろうと,考えるようになった。
栗原・尾松中にいるころは,3年で19回も栗駒山に登った。浦戸中では,生徒全員で3000メートルの遠泳をやり,私個人では,島から島へ,何度も遠泳を試みた。次に赴任した遠刈田中ではアキレス腱を痛めてしまい,そのような行事はできなかった。
石巻のへき地・小竹浜でも,無謀な冒険を何度も行った。ここでは田代島からの遠泳9キロ(約10時間の挑戦)に触れる。

■ 9km遠泳の無謀

昭和49年か50年の夏休み(8月のお盆前)のことである。
台風が接近しているとかで,波はかなり高かったと思う。当時の3年生の何人かと2年生の何人か,10人くらいだったと思うが,田代島の近くまで小船で送ってもらい,そこから,小竹浜までの「遠泳」(約9km)を断行した。
私もいろいろ冒険をやってきたが,この挑戦は少し無謀だった気がする。船2艘で伴走してもらったのだが,時には,波が5mの高さを超えた。水温の変化も激しく,海のそのような性質を知らない者には,恐怖そのものであった。生徒も私もあまり離れないように努めたのだが,最大で50メートルまで互いの距離が広がった。途中,立ち泳ぎで休憩をとったり,お昼にしたりで,泳ぎながらおにぎりを食べたり,お菓子や飴玉,水,清涼飲料水を飲んだことは,いい思い出である。
とにもかくにも,10時間以上かかって,夕方というより,もう夜を迎えている小竹浜に,全員無事に到着したときは,さすがの私も「ホッ」としたことを覚えている。全身から力が抜けて,岸壁に自分の力だけでは上がれなかったことも,よみがえってくる。
その日はそれで終わらなかった。
家に着くと妻が言った。なかなか帰ってこないことに,生徒の親が心配のあまり,
「阿部先生は,どうしてこのような危ないことをやるんだ」
と,口々に非難めいたことを言ったという。
それを聞いた私は,途端に頭に血が上り,郵便局に直行して,有線放送(町内放送)のマイクを握り叫んでいた。
「皆さん,心配かけてすみませんでした。しかし,俺の女房に何だかんだと言わないでくれ。彼女には全然関係ない。文句があるなら,俺に直接言え,この田舎者」
とののしっていた。
夜のとばりに包まれた30軒ぐらいしかない小さい漁村は,しーんと静まり返り,夜の静寂に,私の怒鳴り声だけがひとしきり響きわたり,吸い込まれていった。
(2020年4月27日)

■ 命がけの蔵王登山

すべての会話をかき消すような雷鳴がとどろいていた。
熊谷教頭は,静かに,感情を抑えるように,私に言った。
「阿部先生,山を登るときは時々後ろを振り返らないと,道を間違えてしまうよね。登りの風景と下りの風景はまるっきり違うから」
その通りなのだ。私が下りの道を一つ間違えたのだ。
実行の2か月前に下見に来ていたにもかかわらずである。何のための「下見」だったのか。
とにかく,教頭の指示で,カメラ,時計等の金属製品が一カ所に集められた。我々はその場所から,少し距離を置いたところに避難した。一発目の雷が落ちてから,20分くらい経っている。100発ぐらいまでは数えた。雷が,光る。やや間を置いて,ドンと落ちる。光と音の間隔が,ほぼ無くなって連続性をもって雷鳴がとどろく。
30名の生徒と6人の教師はずぶぬれである。この,凄まじい雷の襲撃は,われわれの不安や恐怖の限界を遥かにこえていた。密かに私は,「雷に直撃され,生徒や教師に犠牲者がでるかも知れない」と覚悟した。ピカ,ドンの連続は,30分ぐらい続き,ついに収まった。雷が誰にも落ちなかったことが,奇跡のように思えた。
下山の途次,水嵩が増して激流となった澄川にかかっている丸太一本の橋を渡らねばならない。難所中の難所だった。みんなで声を出し励まし合ってなんとか越えた。ここは,天気がよければ,子どもたちの恰好の遊び場であり,スリルに満ちた場所であった。
蔵王少年自然の家への帰り道,私は一種の腹立ちを覚えていた。というのも,あれだけの凄まじい雷の連続を,自然の家の職員が知らないはずがない。「どうして,途中まででも迎えに来ないのだ」「知らんはず,ないだろう?」と思った。所についてからも,「大変でしたね。ご苦労様でした」というありきたりの言葉だった。「何を,言ってやがるんだ,こっちは,ちょっと前まで,命掛けだったんだ」。くそくらえ。
その年の卒業式で,あの時の,雷鳴とどろく中での恐怖の蔵王登山が,卒業生代表の答辞の中でリアルに印象深く語られた。
私の大失敗である。
(2020年4月28日)

■ 小竹中学校での授業

石巻の小竹浜にあった小竹中学校は,へき地校であった。
当時,渡波から小竹浜までの道はアスファルト舗装であるはずもなく,雨や雪ともなると,たちまち泥まみれでぐじゃぐじゃな道になった。 石巻からは,船も出るには出ていたが,渡波からタクシーで向かうのが一般的であった。
私が担当した1年生の在籍は,男子6名,女子2名,計8名だった。私はこの子たちを担任しながら,国語,体育,技術の教科を担当した。

「国語」の指導などは,無論,私の無手勝流。
教科書はほぼ1学期に終了。2学期は,私が一人一人に用意した文庫本を使って授業を行った。最初の文庫本は,坪井栄の『二十四の瞳』だったと思う。
8人にとっては,「文庫本」を読むのも,小説を読むのも,おそらく初めてだったのではないかと思うが,私のペースで進めた。 読了までどの程度の時間を充てたのか,正確には覚えていないが,2週間か3週間だったような気がする。週5,6時間の国語の時間に加え,宿題として1時間ぐらい設定したように思う。 当然一人一人の読み進む速さに差があったが,そこは8人と少人数なので,個別指導でなんとかなる。

全員が読み終えた時点で,「読書会」になる。
私が用意したプリントに従って,授業が進められる。
例えば,
「この章のこの場面で,主人公は何を思い,この行動をとったか」
あるいは,それに加えて,
「相手のこの反応をどう思うか」
「もし,あなたが,主人公なら,どのような態度をとったと思うか」
「どうしてそのように考えたのか」
さらに,
「このやり取りのなかで,作者が一番言いたかったことは何か」
などと,私は畳みかけた。
すべてが初めての8人が戸惑うのは当たり前。
このようなやり方で進めていくと,次第に慣れていき,面白くなっていくようだった。

2学期に「指導主事訪問」なるものがあって,上述のような授業を展開したのだが,指導主事は「どうコメントしたらいいものか」,困り果てていたようだ。
当然と言えば,当然である。全国的に見ても,そのような授業をする国語教師はいない。学習指導要領のどこにもない。したがって,誰も見たことがない授業なのだ。
私が,わずかに記憶するところでは,「このような,レベルの高い授業もあるのですね。ショックです」,とのコメントを残して,彼らは学校をあとにした。

実は,その当時の小竹中学校の成績は,抜群だった。
「宮城学習会」や「みちのく学習会」という民間業者による「模擬テスト」があった。 そのテストによると8人の子どもたちの平均は420点(500点満点)を超えている。無論少規模校なので,仙台市の大規模校などが注目するはずもない。 相当優秀な学校でも,350点には届かない。たった8人とは言え,400点超え。快挙である。
小竹中学校の独自の研究によると,1時間の授業で一人の生徒に,平均26回の発表の機会があり,相当鍛えられる。 私は,どの教科の授業も何度も見学し,あるべき授業の姿について,検討・研究,そして実践を重ねた。 都会の大規模校にいれば中程度の力と思われる生徒が,400点超えの力を身に付けているという事実に,あるべき授業の原風景を見た思いがした。
小竹中学校は,私にとって,「学習の在り方」「授業の仕方」「学習環境の在り方」等の「原点」であり,時代がどう変わろうとも常に立ち返るべき「授業の原風景」となっている。
<教育の効果> = <本人の能力×環境×本人の努力> なのである。
(2020年4月27日)


名取市立第一中学校

教 諭 (昭和51年04月~昭和57年03月)

■ バレーボールと私

バレーボール部の顧問を計23年務めました。顧問を引き受ける前は,一番苦手だったスポーツを23年の長きにわたってやれたのは,不思議といえば不思議です。「えん」といえば縁。
中体連に関わり,顧問をしていれば,たとえ学校が変わっても,顧問の立場はついて回ります。自然に,「バレーの阿部先生」になっているのです。私だって勝負になれば,勝ちたい,勝たせたいと思います。 多くの先生は,「町」や「市」の大会で勝ちたいとの思いをもっているのです。そして,「県大会」に進み,そこでも「優勝」したいと,密かに願っているのです。狙っているのです。
私もその一人でした。しかし,ある時期に,私は「勝てない」と悟りました。いくら頑張っても,ベスト8止まりなのです。準決勝,決勝まで進めるチームの顧問を観察すると,私とは「気合」が違っています。「気合」というより,「根性」や「魂」というものが,違っているのです。「戦略」「戦術」が違いました。きっと。彼らの生活の中心は,バレーの優勝にあるのです。そのためには,一切の妥協はないのです。
「敗軍の将,兵を語らず」と言います。私は,敗軍の将なので,「兵」を語ります。
まず,「選手選び」。これは,決定的に勝敗を左右します。私の知るかぎり,スポーツ好きで運動神経の優れた子は,一部の例外を除いて,野球,サッカー,バスケなどに行きます。残りが,テニス,卓球,バドやバレーボールにくるのです。(バレーボールを選んだ人は,どうぞ,私の悪口を)。無論,柔道,剣道もあるのですが。
名取一中のときは,学年で2人ぐらい,「丸刈りになるのが嫌だ」という理由で,野球を選ばず,バレーに入ってきた「逸材」がいました。そういう,ずば抜けた者が3人いれば,なんとかなるのですが。残念ながらいつも一人足りませんでした。「あと一人ぐらい,作れよ」と言われれば,何も言えません。それと,もうひとつ,私の習性。どんなに下手でも,常に一生懸命に練習している生徒や問題行動の多い生徒でも,晴れの舞台で使ってしまうのです。
「阿部さんは甘い。あれでは,勝てない」と何度も言われました。
県大会で優勝の栄誉に輝いた何人かの先生を知っています。古くは,大須の先生。生出中学校や中新田で活躍して,全国ベスト4まで行ったM先生。仙台二中のS先生にはお世話になりました。彼らに共通していることは,「執念」「貪欲」「勝負勘」。お人好しの私など,足元にも及ばなかったのです。
ただ,言い訳のついでに言わせてもらえば,私の部活動運営は,あくまでも,生徒指導の一環としての指導であったことだけは,伝えたいと思います。(亡き妻は知っていました。)
(2020年5月16日)

■ 3年B組から1年1組へ

【3年7組担任(昭和53年)】

教員生活36年の最後に名取市立第一中学校に勤務しました。
私が30代前半の頃,6年間務めた中学校です。20年も離れていた学校でした。20年前は1000人を超えるマンモス校でした。1学年は実に8クラスもありました。
名取市内4校での中総体などは,ほぼすべて部活動で一中が優勝を独占していたと記憶しています。私も男子バレーボール部の顧問でしたが,6年間連覇し続け,県大会に駒を進めていました。
名取市中学校陸上競技大会も,確かどの種目も優勝を独占し,完全な名取一中の時代でした。高校進学についても,凄い成績であったと記憶しています。仙台市内の進学校などに毎年100名を超える合格者を出しており,文字通り文武両道を具現している学校でした。
学校行事も充実し,校内合唱コンクールはレベルが極めて高く,3位に入賞することさえ大変でした。文化祭も学級対抗で競い合う部門が多く,開会行事から閉会行事までの企画・立案・運営をほぼ生徒の手に委ね,おおいに盛り上がっていたことを覚えています。時代が時代であり,不登校,いじめなどはほとんどありませんでした。
ただ,どのクラスにも「やんちゃな生徒」がいて,「番長」なるものが存在していました。昭和50年ごろと言えば,中学校の荒れが全国的に顕在化し始めたころであり,名取一中もその例外ではありませんでした。

私が担任するクラスは3年7組。他のクラスに比べ,特に元気のいいクラスでした。私はアキレス腱を切ったりして,当時の先生方や生徒諸君には,多大な迷惑と心配をかけてしまいました。なんとかかんとかクラスをまとめ卒業させることができました。進学についても,ベストとは言えないまでも,かろうじて間に合ったというところでした。そのころの生徒たちの武勇伝は,忘れられないくらい数々あるのですが,それは私の胸にしまっておきたいと思います。
テレビドラマ・3年B組を凌ぐ,わが愛すべき3年7組でした。
思い出すたびに,自戒と反省ばかりで,私自身の「本当の愛情の足りなさ,一人一人への思いの欠落,使命感の低さ,浅学な教育観」に,身が縮む思いがしたものです。

3年7組の子どもたちと懸命に向き合い,1年間切磋琢磨し合った経験を土台として,「来年はこのようにやるぞ」「このように生きるぞ」という私流の哲学が生まれ,新しい子どもたちと向き合うことができたのです。

【1年1組担任(昭和54年)】

名取一中で担任をもったのは,昭和54年度の1年1組が最後でした。前年度が3年担任だった場合,1年生はとりわけ初々しく,新鮮に感じるものです。この年私は前年度の反省を踏まえ,「理想の学級づくり」を目指してスタートを切りました。41人の生徒一人一人が,一人の例外もなく,1年間の学級生活の中で必ず1度は輝く,輝ける時間,場面を作っていこう。互いに助け合い,支え合って,伸びていく場面が一つでも多くみられる集団を作っていこう。そんな目標を内に秘め,学級づくりをスタートさせました。
そうは言っても,13歳,14歳の生意気盛り,思春期の始まりに生きる少年少女たちです。悪口,無視,軽蔑,嫉妬,馬鹿にする,揶揄,ケンカ,いじめ,暴力,すべて有りなのです。

そのようなできごとを少しでも少なくするために,次の「戦略」を立てました。

(1) 朝の会を,短時間で必ずやる。(担任の努力)
(2) 昼食時。(一つの班に1週間入り,しゃべる。「観察」)
(3) 帰りの会(いくら顰蹙を買っても,充実させる。明日の学級の支え)

私の採点では,100点満点中,50点から60点のクラスができたものと思っています。

その当時の名取一中は「学校行事」を大切にする学校でした。「校内合唱コンクール」「一中祭」「運動会」「校内球技大会」など多彩な行事がありました。一概に「文化祭」と言っても,「新聞コンクール」「ジャンボ絵画コンクール」「教室展示コンクール」「演劇コンクール」の部門があり,すべての部門で3位までの「賞」があり,本気で競い合ったものでした。
わが1年1組は,14種目の競い合いの中で,なんと,14枚の「1位」「最優秀賞」つまり「金メダル」を獲得したのです。完璧・パーフェクトです。36年の教員生活の中で,後にも先にもこんな経験はありません。そういうクラスは見たこともないのです。

さて3月の学級じまいを前にして,14枚の「賞状」をどうしようか,と考えました。我ながらいいアイデアが浮かびました。14枚の賞状の1枚1枚を41等分に切り取り,生徒一人ひとりに賞状用紙を配布して,切り取った一片一片をていねいに貼らせました。41人の努力の成果が詰まったオリジナル賞状の完成です。
自分の中でも,「ナイスヒット」の一つと思っているのです。何十年も経った今,誰か一人でも覚えていてくれれば嬉しいのですが。

担任が引っ張り,押し上げ続けていく,細かく,うるさい,学級経営-「面倒な奴」と思った生徒も多かったはず。
最後に,アンケートと私に向けての「ラブレター」を書いてもらったのですが,「感謝」「よかった」「阿部先生,有難う」などの言葉が踊っていました。それは,子どもたちの私への精一杯のリップサービスと思っています。
果たして,私が求めた「集団としての質の向上が,どの程度達成されたのでしょうか」,今でも,謎のままなのです。
「思いやりの心」「助け合う心」「支えあう心」が,少しは育ったのでしょうか?
知真理,自分以外の他人に関心を持ち,ともに生きようとする気持ちが,育ったのでしょうか?
「嘘をついてはいけない」「いじめは絶対ダメ」「掃除はさぼるな」は,どこまで,定着し,達成されたのでしょうか?
無記名でないと,真実は見えてきません。
きっと,半分の生徒は,私のやり方に「よい」と思ってくれただろうと,50点と自己採点しているのです。

ちなみに,今でも賀状のやり取りをしている生徒が5人います。彼らも54歳になりました。年に何回か自宅を訪ねてくれる生徒が3人(男子1,女子2)いるのです。有難いことです。
(2020年5月22日)


亘理町立荒浜中学校

教 諭 (昭和57年04月~平成02年03月)

■ 50kmを歩く会-14才の哲学

荒浜中学校で「50kmを歩く会」を断行したのは,昭和58年のことである。
以来,途切れることなく「50kmを歩く会」,途中で「街道を歩く会」と名を変えて,続いているらしい。

その前の年の昭和57年に,2学年の行事として「30kmを歩く会」を実施した。
当時,荒浜中学校は,県内でも有数の「荒れ」という現実を前に立ち尽くしていた。
しかし,課題を抱えた子どもたちも含めて,本心では健気に前向きに生きることを望み,ひたむきに努力する生徒たちがほとんどであった。
子どもたちに「懸命に生きるって,結構楽しいかも」「みんなで力を合わせるって,なんかいい」,そんな体験をさせたくて「歩く会」を断行した。

さて,学年単位での実施ではなく,全校参加の「50kmを歩く会」である。
毎年,同じ道を歩くのでは面白くない。
妻淑子と一緒に自転車で走り,あるいは,免許取り立ての危ない運転で歩きまわり,三つのコースを決めた。

一つは,七ヶ浜の火力発電所からの50km。
二つ目は,福島県の原町からの50km。
そして,三つ目は,福島県梁川からの50kmである。

「なぜ,50kmなのか」と聞かれる。
「マラソンは,42.195km。歩くと,分かるけど,40kmからの10kmにドラマがある。そのことを,体験させたい」と答える。

人によって感想は様々。
足が棒のようになった人は,「もう歩けない,なんで自分は,こんなひどい目に合うのだ。50kmなんて嫌だ」。
喉が,カラカラ,足がパンパンになった人は,「水が欲しい。車が,憎たらしい」と。
「もう,断念して車に乗れよ」には,「ここまで来てそれは,できない。がんばります」となる。

40kmからの道のり,多くの生徒は互いに励ましあい,歌を歌ったり,静かに自分と向き合ったりする。
苦しさや,辛さと戦い,何も考えられない子もいる。
自分の弱さを知る子もいる。
両親を思い浮かべ,兄弟,姉妹に思いはせる子もいる。
水の大切さ,車の便利さ,現代文明のすごさに,触れる子もいる。
友だちの優しさや有難さを,改めて考える子もいる。

でも,今歩いている行為は,誰も替わることができない。
最後まで歩くのは自分しかいない。

どんなにつらくても,人生を歩くのは,生きていかねばならないのは,自分なのだ。
14歳の哲学,15歳の哲学の始まり,と私は思っている。

50kmを歩く会を始めた当時,科学技術の発展によって,社会の変貌は激しく,便利で快適な生活が一般化しつつあった。
大人も子供も,便利さと楽になることを求めることに夢中になっていた。
汗を流すこと,泥だらけになること,汚い仕事に就くこと,危険なことをすることは,遠ざけられる風潮があった。
50kmを歩く会は,そうした風潮に対する私なりの抵抗であった。


※ 阿部先生が学年主任として発行した学年通信を少しだけ紹介します。


 のびのびと逞しく


荒浜中学校3年通信 防波堤 第1号 1983.4.16

新学期が始まってから,早や一週間が過ぎようとしている。クラス替え後,子供達は,新しい人間関係の中で,緊張感を抱きつつ,どの子も新たなる希望をもって,クラス創りに励んでいます。
新しい学級目標,新しいグループ,初めての係,……,組織づくりが進んでいます。思うようにならず落胆する子,相変わらず張り切っている子,新しい人間関係になじめず沈んでいる子,決意も新たに燃える子,……と,新学期ならではの光景が見られます。

私達も期待に胸が弾みます。
・一所懸命に勉強して欲しい。
・係活動や清掃に真剣に取り組ませたい。
・生徒会活動や行事に,納得いくまで取り組ませたい。
・部活動でいい汗を流し,中総体で好成績を。
・良い友人を見つけてほしい。
・明るく,楽しいクラスを創ってほしい。
・希望の高校へ進ませたい。
・他人の痛みがわかる人間に育ってほしい。
・利己心を捨て,思いやりのある人間になってほしい。
・思い出深い,充実した一年にさせたい。
等々,きりがないほど,望みが多いのです。

どの子にも,自由に,伸び伸びと,逞しく生きる権利があります。
どの子にも,まだ輝かないで,隠れている,素晴らしいものがあるはずです。

そこに,私達の仕事があるようです。如何にして,伸び伸びと生きられる環境を創っていくのか。どの程度できるか分かりません。ただ,やれるだけやりたいと思っています。

子供達は,いよいよ難しい時期を迎えました。進路の選択を控え,不安や悩みを抱える時期です。勉強が思うようにはかどらなかったり,成績が伸びなかったり,勉強そのものに疑問を感じたり,受験体制そのものに反発を感じたり,……,いきおい,孤独,絶望,挫折,反抗等々に,陥りがちです。
さらに,子供達を取り巻く環境は,決して好ましいものばかりではありません。刺激的な情報と誘惑,そして,軽薄な風潮等,彼らをくすぐるものが,そこかしこに潜んでいます。
だからこそ,この時期を乗り越える力,この環境を越えていく逞しさを身に付けさせねばと思うのです。

子供が素直に明るく育つのに,そして,育てるのに,難しい世の中になっています。
皆様と一体になって,頑張っていきたいと思っています。
宜しくお願いします。


 いじめについて考えよう


荒浜中学校1年通信 いさりび 第26号~第31号 1985.1.23-2.21

【第26号】 学級での生活は楽しく,充実していますか?

みんなが昨年4月の入学後,まもなくの学活で,「あなたは,あなたのクラスがどのようなクラスであってほしいか」「そのために,あなたはどのようなことを考え,努力したいと思いますか」という,アンケートに答えています。覚えていますか。 ほとんどの人が,下記のように書いています。

・明るく,ユーモアにあふれたクラス
・協力し合い,団結力のある学級
・信頼しあえる,楽しいクラス
・活発で,みんなが伸び伸びと生きられるクラス
・みんなで励まし合い,助け合う,思いやりの深いクラス
・ひとりの喜びをみんなで喜び,ひとりの悲しみをみんなで分かち合う学級

クラスの誰もが,同じような願いをもっていたのです。
明るく活発なクラス,協力し合うクラス,信頼しあえるクラス,思いやりのあるクラス,……
「こんなクラスができたら,どんなにか素晴らしいことだろう」と,先生方も思いました。
そして,そのようなクラスをつくっていこうと,みんなで決意を新たに出発したはずです。

あれから,約10か月が過ぎ去ろうとしています。
みんなが,目指したクラスができていますか。そういう素晴らしい学級をつくるために,あなたはどのような努力をしてきたでしょうか。

あなたのクラスに,こんな人がいないでしょうか。

・気の弱い人やおとなしい人をいじめたりする人
・何をするにも,自分勝手なことばかりする人
・掃除のとき,他人にばかりさせて,サボってばかりいる人
・係の仕事などを全然しない人
・他人の悪口や陰口ばかりしている人
・他人にいたずらしたり,ひやかしたり馬鹿にしたりばかりしている人
・口先ばかりで,実行の伴わない人
・他人に命令や指示ばかりしている人
・自分の仲良しグループでひそひそ話をして,他人を仲間に入れようとしない人
・暴力的,威圧的な言動で,いばって支配している人
・嫌な事は,全部他人にやらせている人

あなたは,上のようなことをやっていないでしょうか。

学級は一日の学校生活の大部分を過ごす場です。学級の雰囲気や人間関係が良くなければ,学校に来るのが気が重く,嫌になります。 楽しく,明るい学級をつくるために,どうすべきかを,考えてみましょう。

【第27号】 正しいとされることが,何でも言えるクラス

前号で述べたように,「良いクラス,楽しく,心底明るい学級」について考えてみたいと思います。
クラスの雰囲気が良くなかったり,友達関係がうまくなかったりすると,毎日学校に行くのが嫌になり, 登校しても,気が重く,孤独になったりしていきます。

誰だって,明るく,楽しいクラスであることを望んでいます。どんな人でも,そういう学級で暮らせる「権利」をもっています。 そういう,一人一人の権利を実現できる学級を,みんなの力でつくっていきたいものです。

こんなことを言うと,「それは,理想だ」「そんなことできっこない」「そんなこと関係ない,どうでもいい」等々の感想が返ってきそうです。
おそらく,小学校以来,いろいろな友人関係の中で,学級でのさまざまな体験を通じて,みんなはそのような学級の実現を「夢」「無理難題」と決めつけているような気がします。

確かに,クラスの誰も彼もが,そのように思っている間はダメです。「あきらめ」からは,何も生まれません。
明るい学級,楽しいクラスは,待っていても,やってきません。やはり,一人一人が頑張ることです。努力することです。 どんな小さなことでも,自分であまり意味がないと思うことでも,「勇気」を出すことです。

大切なことは……
「よい学級をつくるんだ」という意識をもって努力することです。 「どうでもいい」「どうせダメ」と考えてしまい,ただ漫然と過ごしてしまうのと,意識して過ごすのとでは, 人間としての成長の度合いが,まるっきり違うのです。 そして,そのことは,学校の生活の中で,授業で学ぶのと同じくらい,大切な勉強なのです。

学校を卒業すると……
高校や大学を卒業すると,みんなは必ず,どこかに就職し,働きます。その職場もさまざまです。いろいろな人がいます。 おっかなくて,何も言えない会社だって,いくらでもあります。たまたま,みんなが,そういう会社に入ったらどうなるでしょう。 暗くて,ジメジメした,封建社会みたいなところで,黙って,おもしろくない日々を過ごすのでしょうか。 一生そういう職場で,不愉快な毎日を送るのでしょうか。
地域の中でも,家庭生活でも,同じことが言えます。

変えることができるのです
集団やクラスの雰囲気は変えることができるのです。 構成員全員の意識の持ち方と,一人一人のささやかな心くばりとによって,変わっていくものです。
一人の小さな善意と,一人の大きな心とが,きっと明るさと楽しみを生み出していくのです。
がんばりましょう。


蔵王町立遠刈田中学校

教 頭 (平成02年04月~平成04年03月)

【記述なし】

阿部先生が教頭に昇任したのは平成2年4月,49才の春のことです。
赴任先は,18年前に2年間勤務した,懐かしい遠刈田中学校。
奥様・淑子様とともに勤務し,互いに結婚を意識した舞台でもあります。
初めての教頭職ゆえ,「校長の意を体す」ことに注力し,自分の持ち味を意図的に消そうと努力していた様子がうかがえます。
とはいえ,阿部先生の教育への熱い思いは,消そうにも消せるはずもなく,
「教頭先生の思いは,日々の実践を通して,生徒,保護者に浸透していました。特に,私たち教職員が受けたインパクトは大きく,おおいに感化されました」
と,当時一緒に勤務した教員から聞いたことがあります。

遠刈田中学校への通勤には,神経を使ったようです。
岩沼市と村田町を結ぶ峠道は,細く見通しの悪い急カーブが続きます。
冬場は特に大変だったようです。
固く凍結した峠を越えて,ホッと一息,油断した途端,広い下り坂で,道路左下の法面に車を落としてしまったこと。
スキー部が遠征や大会に出かける度に,選手や引率教員を見送るために,その冬道を早朝出勤したこと。
蔵王町の永野を通り,疣(いぼ)岩を過ぎたところで,急激に天候が変わること。
などなど,苦い思い出の数々を,語ってくれたこともありました。

亘理町立亘理中学校

教 頭 (平成04年04月~平成06年03月)

【記述なし】

阿部哲男先生の人事異動は,若かりし頃の名取一中を皮切りに,ほとんどが一本釣りに近い,請われての異動だったようです。
教頭として2校目となった亘理中学校への異動も,その例にたがわず,翌年に予定されている研究指定校としての公開研究会を準備・成功させるべく,まさに三顧の礼をもって迎えられたのでした。
当時の亘理中学校は,若くて血気盛んかつ有能な教員が多く,「船頭多くして船山に上る」状態だったようで,その若きエネルギーをうまくとりまとめ,一つの方向に牽引していくことが,至上命令だったようです。
平成5年10月19日に「宮城県教育委員会指定・特別活動公開研究会」が行われ,県内外から参加者が詰めかけ,大成功に終わったと聞いています。
教頭として苦労したのは,毎週のように「研究推進委員会」が行われ,それが毎回深夜に及んだこと,すきっ腹で仕事をさせるわけにもいかず,夜食の手配等に腐心したこと,などなどです。
研究の進め方や研究推進のための予算確保をめぐる,教育委員会との連絡調整においても,重要な役割を果たしたようです。

阿部先生にとって,悔やんでも悔やみきれないのが,校務に忙殺され,奥様の病の進行に気付かなかったことです。
平成6年の2月に腰痛を訴え,あちこちの病院を巡ったのですが,原因が分からないまま,次の任地・坪沼小学校に異動となりました。
4月に入り,奥様自ら「がんセンター」での受診を決断し,4月15日入院となりました。

仙台市立坪沼小学校

校 長 (平成06年04月~平成08年03月)

■ 「ゆずりは」といえば坪沼小学校を思い出す

「ゆずりは」といえば,坪沼小学校。私にとって初めての小学校である。
どうして,自分が小学校なのだろうと,人事異動なるものに疑問を持ったのも初めてである。
生意気な思い込みなのだが,「今時,自分ぐらい中学校が合う人間いない」と思っていたのだ。勘違いだったのだろうか。

一緒に勤めた当時の教職員の方々には申し訳ないのだが,校長として何もしなかったと反省している。
学校に行く。朝の打ち合わせを終えると,午前中は教材研究。午後は,授業終了後,子どもたちと缶蹴りなどをして遊んだ。
5時過ぎには,帰宅することができた。スーパーやコンビニに寄って買い物ができた。
妻が入院していたので,ほぼ毎日,自宅に帰ることなく病院に戻り,そこに泊まり,そこから学校へ通勤していた。4月,5月は9割方,病院に泊まっていた。妻のことのみに専念していた。快復を願い懸命に闘っていた妻もついに力尽き,5月29日に他界した。続く無我夢中の日々。ほとんど何もしなかった一学期。何もできなかった一学期だった。

妻のことはさておき,長く中学校に籍のあった私は,8時,9時前に帰宅したことがない。年間を通じて,お盆,お正月等を除き,土曜,日曜もほとんど休んだことがない。
中学校の場合,出勤してから帰宅の靴を履くまで,事務処理,打ち合わせ,諸会議,生徒指導に係る仕事(面談,直接指導,カウンセリング等),部活動指導,多岐にわたる報告,連絡,相談等で,まったく休む暇もない。長くいるとそのことが,当たり前になり,身についてくる。

そういう環境に骨の髄まで浸かった人間が,小学校に行くということ。
「違和感」と言えるレベルを超えている。山村から漁村へ,米作から麦作へと言ったように,まさに異文化との遭遇であった。

驚いてばかりもいられない。私は懸命に小学校とは「何なのか」を理解しようとした。
坪沼小学校の学校課題は?地域の課題は?現代が小学校に求めるものは?など,懸命に探し求めた。

校内研究のテーマが学力の向上(国語,算数)に落ち着き,私は1年生から6年生までの教科書,副読本,指導書を読み込んだ。毎週,誰かが授業を行い,全員で参観し,検討会を持つというサイクルが定着していった。その継続的な取組が,教職員に刺激と緊張感とをもたらした。競争意識とやる気を喚起した。
しかし,わずか1年や2年の地道な実践では,児童がどのくらい学力を向上させたかということを確かめることはできなかった。
ただ,全職員が研究授業を授業を行い,その後の授業検討会で忌憚のない意見交換を続けることで,少しだけ授業力の向上が図れたと思っている。しかし,何の客観的データもなく,ただ主観的に,「○○先生は,授業力がついた」とか,「うまくなった」などという勝手な評価にとどまった。

そのような教師や児童の営みを黙って見守ってくれたのが,校長室の前に立つ「ゆずりは」だった。


ゆずり葉

河井醉茗

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん,お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの,よいもの,美しいものを,
一生懸命に造っています。
今,お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい,花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

■ 9.22豪雨

忘れもしない,平成6年9月22日。
その日は,職員会議があり,「校長指示伝達事項」ということで,私は相変わらず滔々としゃべっていた。外は,雨。突然もの凄い勢いで降ってきた。雨は,時折バケツをひっくり返したような勢いで降り続く。私は話が雨音で消されないようにボルテージをあげた。
その後,雷を伴う大雨は止むことなく降り続いた。児童はすでに下校していて助かったが,途中で会議を打ち切り,職員も帰宅させた。

しかし,私が校門を出る頃には時すでに遅く,田の上まで冠水し,道路と田んぼの区別がつかない状況になっていた。ほとんど「勘」で脱出し,県道に出た。大八山の上に向かって坂道を上るのだが,雨水が滝のよう流れ落ち,車に向かって襲ってきた。
その後,何時間かかかって帰宅したが,それからが大仕事になった。雨は依然として収まらず,継続して降り続いた。恐怖を感じた。このままでいくと,学校の裏山が崩れ,校舎全体を呑み込んでしまうのではないか。私は本気で心配した。

教頭(斎先生)に連絡した。
「このまま降り続くと,土砂で学校が埋まるかもしれない。夜中か未明になるか分からないが,船長としては,見届けねばならない」
朝方2時に学校で,落ち会う約束をして,電話を切った。

土砂降りの中,坪沼に向かった。県道の最高地点(大八山)まで,あと200mというところまで行ったのだが,そこから先は,ほとんど「滝」状態で,怖くて進めなかった。私は,歯噛みして,判断と行動の遅れを悔いた。もう,すぐそこが坪沼なのだ。
教頭先生は雨の中,危険を顧みず,今か,今か,と私を待っているだろう。「きっと,来ると信じて」。それを思うと,情けなく,悔しかった。
私が,ここまで来たことを,証言する人はいない。まさに,「神のみぞ知る」である。

「このままでは,教頭先生が,危ない。なんとかしなければ」
私は,自分の恥ずかしさや,恥,弱さ,など,そういうものを振り切って,帰宅を決断。4時か4時30分ごろ自宅に着いた。即,教頭先生宅に電話。
奥さんによると「まだ,帰って来ない」と。
私はあせった。結局,7時か8時頃,電話で話すことができたが,私は非常に落ち込んだ。教頭先生に顔向けできない,と。本当に悔しかった。いくら,弁解しても,所詮,弁解。
彼は,素晴らしい人柄だが,私を信じまい。

私の教師人生において,こんなに悔しくて,残念なことはない。
何の証拠もない。あの時の「車」と大八山のあの{坂道」。そして,53歳の私。

その後,仙台市は,崖の崩壊を心配し,斜面にかなりの数のセンサー付きピアノ線を張った。危険と思われる教室と職員室の使用を止め,体育館に移した。さらに大雨が原因かどうかは判然としなかったが,学校の水が濁り始め,とても飲める状況でなくなった。仙台市は,ただちに水道管の全面改修を決定し,4トンタンクの給水車を用意し,工事終了までの20日間程,毎日届けてくれた。

私は,仙台生まれ,小中学校も仙台なのだが,教師としての勤務は,仙台以外の,いわば郡部ばかり。どこの地教委も学校の要望やお願いに,即,対応してくれないことが,当たり前と思っていた。仙台市の対応は,私にとって,信じがたいことであり,驚きでさえあった。
何が違うのか?さすが大仙台市,規模,財源が違うのか?それは,そうかもしれない。そこで,働く人が違う。働く人の志が違っていた。仕事にかける意気込みと誇りが違っていた。少なくとも,私には,そう思えたのである。

振り返ると,豪雨があったのは,平成6年9月22日だった。とすると,平成6年5月29日に,妻が他界し,大雨・洪水もあり,新米校長としては,結構な船出であった。

翌7年の春には,仙台市立病院(元の三島学園,令和2年の今は東北学院大が工事開始)で,約3週間で,3カ所(甲状腺炎で24針縫う大オペ,胆のう摘出,大腸ポリープ7個摘出)手術を断行した。「最低でも2か月の入院を要す」とは医者の弁。
「しかし,阿部さんは,エネルギーとパワーが,並みでない。本来は,許可できないが,退院を認めます」と主治医。
わずか23日で退院して,小原温泉ホテルニュー鎌倉に1週間湯治に行き,傷を癒した。

その後,ホテルニュー鎌倉は宿を閉じてしまった。わざわざ「ありがとうございました」の挨拶状が届いた。好きだった温泉旅館なので,寂しい。

なお,教頭先生との連絡がうまくいかなかったのも,携帯電話がほとんど普及(全国で1%もない)していなかったことにも一因がある。「もしも」は歴史には禁物だが,あの時互いに「携帯」や「スマートフォン」があれば,展開は全く異なり,私の信頼度も少しは上がっただろう。
(2020年4月30日23時35分)

■ 坪沼小から相互台小へ

坪沼の1年目(平成6年度)の3学期,平成7年1月17日早朝,阪神淡路大震災が起こった。児童会を核に,全校児童,保護者,地域で募金を募り,わずかではあるが寄付金を送った。

2年目の私も,相変わらず何もしていない。仙台市校長会や市教研の会長職などを2,3預けられ,真面目に取り組まねばならなかった。当時,仙台市の会長は,県の会長を兼ねることも多く,結構忙しかった。加えて,生徒指導研究部会などは,小中学校合わせて会長を頼まれた。駆け出しということもあり断れなかった。これも,後日知るところとなるのだが,なんでも,忙しいことは,新米にやらせ,鍛えるということもあるとのこと。

そんなときに,仙台市が坪沼小学校を新校舎にと考えているらしい,という情報を耳にした。
さっそく,仙台市教育委員会に出向いた。坪沼小在任中,時間があれば,何十回と市教委に通い,担当と話を重ねた。あまりの頻度に,「校長先生,もう市教委に出勤しなくてもいいから」とまで言われてしまった。
並行して,保護者会,地域建設期成同盟,若妻会,社会学級なども,新校舎建設に向けて,一丸となっていた。新校舎建設の勉強のため,県内各地の新しい学校を訪れ,何度か研修視察も行った。

それから幾星霜,確か名取市立第一中学校に勤務していた平成13年3月に,新校舎・校庭落成記念式典が催され,お祝いに伺ったことを,静かに覚えている。
新校舎建築に駆けずり回ったころから,すでに6年ほどが経過していた。
行政の仕事は,常に継続的な訳だが,完成に居合わせた人たちが主役となり,光が当たる。創造の黎明期に声を上げ,頑張った人たちがたくさんいるのに,あまり脚光を浴びることもなく,片隅に静かに位置している。少しだけ関わった者としては,当時頑張った人たちのことを思い出して欲しいと,いつも思う。少しでいいから,光を当ててほしい,と願っている。さまざまな事情があることは理解できるので,仕方ないとは思うのだが,なかなか地域住民や保護者には理解できない部分でもある。

今になって,思い出したことがある。思えば,変な因縁である。
その年,新校舎建設のために,あちこちに視察に行った。最後の視察で訪れた学校が,なんと,名取市の新設校・相互台小学校であった。地域の方々と一緒に見学した時は,9割方出来上がっていたのだが,まだ,建設途上であった。その時に受けた印象は,以下のとおり。
「創造性に満ち,優しい色調の素敵な学校」
「やや,女性的」
しかし,その時の私は,相互台が名取市に属していること,坪沼と地続きで,隣に位置することにさえ気づかず,相互台という名前さえ記憶に残らなかった。
一体,何にそんなにも集中し,夢中になっていたのか,未だに思い出せない。

そして,その数か月後,仙台市教育長・坪山氏より
「相互台小学校に転じていただく」
との話を受けた。3月20日頃のことである。
「その学校はどこにあるのですか」と尋ねた。「泉区の方ですか」は次の質問。
「すぐ近くです。知りませんか」
「わかりません。聞いたこともありません」
私はそれまで「自分は仙台市出身だし,いよいよ,仙台で働き,仙台で終わるのだろう」と,勝手に思い込み,決めてかかっていたのだ。

「阿部先生,あなたは,宮城県と仙台市との間の交流人事の対象です。従って県にお返しする時期がきたのです。お分かりでしょうか」
さすがに 血のめぐりの悪い私でも納得するしかなかった。

そして,次の質問。
「それにしても,その相互台小学校とは,どこにあるのでしょうか」
「286号線沿いで仙台市に対面しています。坪沼の隣ですよ。今日,お帰りのついでに,寄ってみたらいかがですか」

次の疑問,そして独り言。
「新設校?」
「でも,なんで,俺なの?」
「俺って,小学校向き?」
「『俺ぐらい,中学校向きの教員はいない』と自負していたのだが。勘違いか思い込みだったか」

後年,年齢といくらかの経験とを重ねたことで分かったこと。そして,納得できなかったこと。

(1) 自分が,なぜ続けて小学校に赴任するのか?中学は向いていないのか?

県教委にも市教委にも,学校づくりとか,立て直しとかのビジョンや哲学もなく,人事を単なるコマ遊びのように思っているのではないか?
校長ひとりひとりについての情報が,どのように伝わっているのか?

(2) なぜ,私が,新設校の校長なのか?

私は,小学校の経験などないに等しい。
ふつうに考えるなら,「豊富で,多様な小学校経験を持ち,高い理想と志を掲げ,実践している人物」が適任と考えるはず。
私ごとになるが,そういう仕事は,嫌いではない。
ただ,上記のような人物像には,かなり遠いところに私がいたからだ。
教育相談,生徒理解,生徒指導,学校行事,部活動などは長年関わり,実績を積んできたので,私という人間を部分的に知る人はいるかもしれない。しかし,それも一部,中学校の先生だけ。

今でも,納得できずにいる。
(2020年5月1日)

■ 私を支えてくれた教え子たちのこと

平成6年5月29日に妻淑子が他界。以後,私の一人暮らしの戦いがはじまった。
非常に有難く,今でも感謝しきれないのは,阿部先生の一大事と聞き,沢山の教え子たちが家事全般の支援に,毎土日のみならず,ウィーク・デイの日中も来てくれ,炊事,掃除,買い物等につとめてくれたことだ。

作った家の合い鍵も10個を超えた。
仙台,名取を中心に,塩釜,古川,亘理方面から,車や電車で来てくれた。それが,3年,5年,10年も続いた。
特に妻なき後1年は,O君とH君が泊まってくれた。後で聞いたことであるが,「阿部先生は危なかった」とのこと。今までこのように生きてこられたのは,兄妹の援助と,このような多様な支援が継続的になされてきたからに他ならない。

さて妻の命日5月29日になると,決まって仏壇に供える生花が届く。東京で生きるS君からである。節目節目で,辞退を申し上げたのだが。その後も途切れることなく生花は届けられ,仏壇に光を与えてくれた。
それが26年間も続いている。世間の常識を遥かに超えた献身である。これほど有難いことはない。S君には,感謝してもしきれない。

S君は寒風沢島に一人息子として生まれた。兄弟姉妹はいない。小学校低学年で父親を亡くした。そして,高校2年生の時,母親をがんで失った。
見舞いに行った私に,母親がベッドに正座して頭をさげた。
「Sには叔父やいとこは何人かいるにはいるのですが,基本的に誰もいなくなります。先生,宜しくお願いします」
私は黙ってうなずいた。
S君は几帳面で,その名のとおり誠実な人柄で思慮深く,静かな正義派でもあった。勉強もでき,部活ではバレー部の不動のセッターであった。

高校3年のある時,S君から電話があった。
「東京ガスに就職が決まりました。でも,夜間の大学にも行きたいのです。入学金が20万か30万必要なので,貸してください。先生,お願いします」
とのこと。
家内に相談して,約束の日時に観光桟橋に出向いた。お金を渡そうとしたとき,彼は突然,
「先生,すみません。このお金は受け取るわけにはいきません」
と言った。
「なんだ,S,俺を試したのか」
と,私は言った。
「違います。やっぱりよく考えてみると,俺が間違っていたのです。自分の力で働き,金を貯めて大学に行くべきだということに,今気づきました。先生,本当にありがとうございました。すみませんでした」
と頭を深々と下げた。

ガス会社に入った彼は,ガス漏れ検査などの仕事を5年ぐらいやったと聞いている。
その後,遠縁に当たる菓子問屋の仕事に転じ,30年近く会社の中枢で働き,最後は社長としての重責を担った。30人を超える中小企業である。
2008年のリーマンショックのあおりを受けた折,「持ち堪えられず倒産するかもしれない」と彼は電話で私に告げた。
会社を畳むことを覚悟した彼は,社員の再就職先を見つけるために最後の最後まで奔走した。その努力が報われ,社員全員の行き先を決めることができた。自分のことよりも,社員とその家族のことをどこまでの気遣う彼の姿勢は尊く,誠実そのものであった。

そして,自分はどこにも行くところがなく,コンビニの店員になった。給料が以前の3分の1に減り,食べいけないので,奥さんも働き始めたとのこと。家族全員ギリギリの努力をしながらの再出発であった。

次の挑戦はタクシードライバーである。最初の2,3か月は戸惑ったが,すぐに軌道に乗り,困らないくらいの水揚げはあがるようになったとのこと。やっぱり,S君は冷静で聡明なのだ。

65歳を超えた彼は,子どもたちの進学の目処も付いたので,ドライバーを辞め,一番したかった「鍵師」を始めるとのこと。そのための学校に通っていて,間もなく卒業とのこと。小さな事務所と軽自動車があれば,あとは自分の腕次第らしい。振り返ると,彼は几帳面で工作好きであり,それを生かした職人的な仕事が一番やりたかったのではなかったか。無口で黙々と何かに打ち込む本来のS君に戻ったのだ。

世の中の景気不景気などに左右されることのない公務員で,ましてや倒産や破産,一家を路頭に惑わせる心配のない人生は,軽いものに違いない。
そのような風雪のない教師は,少し幼いのかも知れない。


名取市立相互台小学校

校 長 (平成08年04月~平成10年03月)

■ 相互台の思い出-新しい教育の具現を目指して

平成8年3月28日1時頃,相互台小学校に勤務を命じられた全職員が,教育長・教育課長の名で集められた。
校長,教頭を含めて初顔合わせ。皆,かなり緊張していた。30分程度の会議で終了。その後,相互台へ,初出勤。
開校に向けての諸準備が始動した「記念日」である。
開校式,始業式,入学式までのあらゆる準備が,瑕疵や遺漏の皆無を目指して進められた。限られた期間と時間の中で,効果的・効率的に実施されたと,思っている。 各校から選ばれた方々だけあって,仕事のスピードと確実性,完成度の高さは素晴らしかった。小学校で沢山の貴重な経験を積んでいる。高い知見を持ち「できる」「切れる」方々で,仕事には,自負心と自信とをもって,当たっていたと思っている。
しかし,このような長所は,時にマイナスに働く。これまで,自分が,努力で作りあげてきた,レベルの高い授業や教室経営,豊かで個性的,規律的な学級経営。信頼に支えられた児童と教師の関係。このような,完成度の高い教育水準が,学年全体,学校全体に波及して,素晴らしい学校をつくるものである。ただ,それは,既成の概念における「立派な学校」であり,今までも,今でも通用する,普遍的価値観を有するすごい学校である。
しかし,時代も社会も急速に変化する。昨日と今日,そして明日はどう変わるか,誰にもわからない。5年後,10年後,50年後,100年後,どのように社会が変わろうと適応して対応できる「力」を身に付けることが期待される。
とりあえず,50年後の未来からの呼びかけに応えたい資質とは何か。「想像力」と「創造力」と「共生力」とが,不可欠な価値観である,と考えた。根底には「自由であること」「自立心に富むこと」「平和を希求する心」を通底させる。
私は,30年前,25年前,そのような視座で,教育を観ていた。つまり,相互台小学校に集ったエリート教員は,すなわち「できる」「切れる」方々は,既成の教育を支えるが,十分ではない。
先生たちは,従来の価値観で固まっているように思えた。そのことに,少しの疑問も不審も感じないで,それ以外のことは認めようとしない,自信たっぷりに思えた。しかし,それでは,夢がある未来はやってこない。凝り固まった価値観から抜け出してほしい,と願った。無理はない。それらの,価値観のもとで,育てられ,鍛えられ,本人の相当の努力で身に付けた,伝家の宝刀である。なかなか捨てられるものではない。

■ 相互台小学校の校歌ができるまで

5月末か6月初め,曲想やいい歌詞を求めて「尾瀬」に向かった。尾瀬沼の周りを巡り,終わりころ,なんとなくの曲想のようなものが浮かんできた。その当時の私の頭にあったものは,次の4曲。

(1) 夏の思い出
(2) 海女の子供
(3) 母さんの歌
(4) 遥かなる友へ
(5) 叙情たっぷりで元気な歌

なんとなく曲想が浮かんできたので,忘れないように,車の中で「うなりながら」帰ってきた。何度も,何度も,それを繰り返しながら。楽器も弾けず楽譜も読めない者にとって,最悪の状況である。それでも,「なんとなくのイメージ」の保存はできた。

学校に戻り,午前中,相互台の団地内を何度か散策した。何度か歩きまわっているうちに「歌詞」なるものが,自然に浮かんできたのである。(これが,降りてきた,というのだろうか?)
早速校長室にもどり,「歌詞」を一気に書き終えた。急いで,音楽専科の先生を呼び,簡単な説明をして,ご理解をいただき,私の歌う歌をピアノで「楽譜」に起こしてもらった。その日のうちに二人で何度か練習し,放課後を待って,全職員を職員室に集めた。

私は「校歌ができたので,聞いてください」と語り,何度か大きな声で歌った。職員は手をたたいて賞賛したが,実のところ反応は難しかったと思う。無理もない。名もない一介の教師による作詞作曲なのだから。それも,これからずっと歌い継がれる「校歌」なのだ。一人一人力量が高く,できる先生方の集団だから,その「びっくり」もひととおりではなかったに違いない。

善は急げ,だ。
その足で教育委員会へ行き,教育長室で,教育長,部長,課長を前に,大きな声で生まれたてほやほやの「校歌」を披露したのである。その時の教育長,課長の驚きの度合いやショックの程度はわからない。人間は,想定外,予想外のことに遭遇すると,ほぼ,ノーコメントになるものである。

「二部合唱に」という私の願いで,姉歯けい子先生(宮城学院大学音楽科教授)のお世話になり,ついに「校歌」は完成した。

名取市立相互台小学校 校歌

作詞:阿部 哲男
作曲:姉歯けい子


今 わたしたちは 緑の中
笑って 泣いて 生きている
心 いっぱい 力 いっぱい
広い大地に 根をはって
あかるい明日へ 生命燃やそう


今 わたしたちは 光の中
歌って 遊んで 生きている
心 いっぱい 力 いっぱい
風に向かって 走っている
輝く明日へ 心つなげよう


今 わたしたちは 大空の中
見つめて 話して 生きている
心 いっぱい 力 いっぱい
みんなのを空を 翔けていく
希望の明日へ とびら拓こう

※ 参考-「夏の思い出」と「母さんの歌」は広く知られています。残りの2曲「海女の子供」と「遥かなる友へ」の歌詞を紹介します。

● 海女の子供

1 海に生まれて 海に行く  海女の子供は 今日もまた
  ひねもす舟の ゆりかごに  ゆられゆられて 波の上

2 波をくぐりつ 藻をわけつ  母がえものを あさるまに
  子供は舟の ゆりかごに  ゆられゆられて 波の上

3 夕日を浴びて 帰りゆく  舟のへさきに 散る波と
  静かにきしる ろの音は  海女の子供の 子守歌

● 遥かなる友へ

1 静かな夜更けに いつもいつも
  思い出すのは お前のこと
    * お休み 安らかに
      たどれ 夢路
      お休み 楽しく
      今宵もまた

2 明るい星の夜は 遥かな空に
  思い出すのは お前のこと
    * 繰り返し

3 寂しい雪の夜は 囲炉裏の端で
  思い出すのは お前のこと
    * 繰り返し

■ 私はいつも不審者


名取市立第一中学校

校 長 (平成10年04月~平成14年03月)

■ 学校再生へ,渾身の闘い

平成10年4月,名取市立第一中学校に赴任。最後の学校。
30代前半(20年前)に勤めた学校に戻ることは,感慨深いものがある。

「あの,一中が,この有様か」が,第一印象。
600人にも満たないのに,なんと「不登校」が29名。「40人を超える教職員かいるのに,何をしているのか」,これが,私の率直な感想。

今でも,覚えている。
始業式。間もなく始まる体育館での「式」,初デビューに備えていた校長室の私のところに,ものすごい剣幕の教員と,何かとんでもない「悪さ」をしたとされるA君が入ってきた。
「校長先生,この子を,叱ってください。学校に入れないでください」
と教員が叫んでいる。
事態が呑み込めずにいる私に,重大な決断を迫っている。
中学校ならではの瞬時の判断である。
「とにかく,この子を,教室に入れてやってください」
と私は応じた。
「私が陣頭指揮で何とかする」というのが,その時の思いだった。

それにしても,ひどい「洗礼」である。
「軟弱指導でいいのか」と,試されているようだった。
それから,1週間から10日間ぐらい,生徒と先生方のバトルが,毎朝,校門と玄関,そして職員室の手洗い場で繰り返された。
私は打ち合わせの度に,
「朝の大切な時間を,『学校に入れる,入れない』ということに,使わないでほしい」
と強く言った。
「規律が乱れる」「すべての面でだらしなくなる」と,多くの職員が心配した。
確かに一時的に「タガが外れたかのように」だらしなさが波及した。

しかし,4年間の苦闘を経ての結論。
4年目,私が60歳定年で退職の時,「不登校」が6名まで減少した。私はゼロを目指していた。
私の後任が赴任した年に,ついに「不登校ゼロ」が実現し,それが3年間続いた。
そのことを知り,密かに,うれしかった。
私の教育方針,戦略,教育観に,そんなに間違いがないことを確認した。

一中での4年間は,私のまさに集大成の4年間だった。
子どもたちの姿を目の当たりにし,
「教師生活の中で身に付けたすべてを,とりわけ,生徒指導,教育相談の心と技術を駆使して,全身全霊で取り組む」
と心に決めた。
そのため,一切の妥協を誰ともしない,「唯我独尊」「阿部哲男流」と言われようが,必ず「溺れているものは,一人残らず助ける」という覚悟を固めた。
「一人でも多くの生徒が,一瞬でも輝いてほしい」
「生徒一人ひとりに寄り添ってほしい」
と職員には何度も何度もお願いした。

私の感触では,3分の1が分かってくれた。3分の1が積極的な賛同を示さない抵抗勢力。残りは「どうでもいい」「関心も熱意もない」「感動とか使命感を忘れてしまった」人たち。

一般に,「指導困難校」と言われる学校ほど,怒ったり怒鳴ったりすることがほとんどで,めったに,ほめる機会はない。
しかし私は,機会を見つけて,「認める」「ほめる」「諭す」を,生活指導の根幹に据えるようにお願いした。

教師や大人に対する信頼を失い,多感な思春期のただ中でもがく生徒たちを導く手だては,古典的な「暴力には暴力で」では決してない。
「北風」だけでは,駄目なのだ。8,9割は「太陽」であるべきなのだ。温かさが,思いやりが,生徒の心を開く。生徒の魂に「小さい灯」を灯すのである。
どんなに時代が移ろうと,この道が「普遍の道」であり,「王道」なのである。
シンプルに言えば,「その思い(哲学)」だけで,難破船の舵を握り続けたのだ。

記憶が定まらない中,一中での4年間を大きな流れを中心に描くと,次のようになる。

1年目,生徒の心と行動の乱れが際立った。だらしない服装とやる気,本気を欠く態度,が目についた。校舎内を自転車で乗り回すこともたびたびあった。ただ,髪の色とか,学らんやスカートの丈がどうのこうのとかは問題視せず,教室に入れるようにした。
2学期の後半に入り,不毛な教師と生徒のいがみ合いと怒鳴りあいが消え,静かな時間が戻ってきた。
勿論,4年間無風なんてことはなく,毎学期に1度程度は大きな(難解な)事件が発生し,その都度,頭を悩まされた。それらの事件の背景には,困窮しどろどろした親の生き方や利害関係が微妙に絡んでいた。ひとつひとつの事件に意欲的に「首」を突っ込む私なので,仕方がないのだが,「子育ての難しさ」を,毎回痛感させられた。

2年目になると,私の考えややり方に「賛同」する教員が6割を超えたことは,大きな「力」になった 。生徒指導の面倒なことは「校長」に言えば,預ければ「彼は,喜んでやる」と映ったのかも知れない。 もちろん,担任と,あるいは主任と,あるいは一人で,時間を見つけては「家庭訪問」に出かけた。

3年目になると,ほとんどの先生は,私と足並みを揃えるようになった,というか,自発的に,「勇気」と「やる気」をもって,子どもたちに飛び込んでいっているようだった。
ほんの少しずつ先生方が「自信」を取り戻していった。生徒は,「元気」を,「素直さ」を,そして本来の「明るさ」を取り戻してくれた。

4年目,8,9割の生徒が,健康な子,健全な子どもになっていった。

冒頭に述べたように,私の退任後,「不登校ゼロ」が3年間続いたことは,私にとっての勲章となったのである。
(2020年6月4日)


■ 退職者代表あいさつ-宮城県教育委員会 退職辞令交付式

2002年(平成14年)3月29日

1 ご指名をいただきましたので,僭越ではございますが,平成13年度の退職者を代表してご挨拶を申し上げます。

2 もしかすると温暖化のなせる業かと思われる,異常な温かさで,駆け込むようにやってきた春の今日,私たち退職者のために,浅野知事さんをはじめ,多数のご来賓の方々の下,このように,辞令交付式を催して頂き,只今は教育長さんやご来賓の方々から,身に余る,ねぎらい,いたわり,お励ましの言葉を賜り,感謝しているところでございます。

3 私たちは今日まで,与えられた仕事をひたすら,誠実に,あるいは精魂込めて,勤めてきたことは事実でございますが,それは教育公務員として「当然のこと」と認識しております。しかし,これまで,全力を尽くしたつもりではございますが,力量不足もあって,ご心配やご迷惑をかけたことが多々あったのではと悔いるところもございます。
にもかかわらず,今日,ハレの佳き日を迎えることができましたのは,県当局,県教委はじめ,学校の同僚,先輩,後輩,保護者,地域住民,そして,関係諸機関の皆様の温かいご理解ご支援があったればこそと,あらためて感謝の念でいっぱいです。ありがとうございました。

4 振り返りますと,私たちは昭和16年から17年の生まれでございます。
太平洋戦争の前後に生を受け,昭和20年8月には,広島,長崎での原爆投下,ポツダム宣言受諾,敗戦となり,翌年には,日本国憲法が施行され,6・3・3・4制が始まった翌年(昭和23年)に小学校に入学しました。 まさに,戦後復興の最困窮期に幼児期や小学生時代を迎えたわけです。今尚,記憶に残ることは,低学年の折,午前・午後の二部授業のこと,米軍支援の学校給食では,脱脂粉乳とあの妙な味のトマトジュースが忘れられません。ノミ,シラミ駆除ということで,毎回,頭から身体全体にふきかけられたDDTの匂いが鮮明に想い出されます。
私ごとになりますが,私が卒業した仙台市立通町小学校は,一学級63名,6年生だけで6学級で,一学年だけで360名を超すマンモス校でしたが,今考えますと隔世の感がございます。

5 その後,我が国は,20年余りで,世界でも例のない,驚異的な経済復興を成し遂げ,国民総生産でも米・ソに次いで世界第3位となりました。 私共が教師になりたての頃(昭和39年,40年)は,米・ソの激しい対立を背景に,日本は高度経済成長の初期にあたり,まさに日の出の勢いをもってかけ昇り,東京オリンピックを成し遂げ,豊かな社会を目指して,まっしぐらでした。

6 その頃,中学生は「金の卵」と言われ,ここ宮城県からもかなり多くの中学生が「集団就職」という形で,関東・中京地区へ送り出され,私は県北の「とある駅」で,彼らと別れの涙を流したことが,思い出されます。
そんなことがなかったかのように,日本は高度経済成長を続けました。
爾来40年,社会は急変し,予想だにしなかった,ベルリンの壁崩壊,次いで,ソ連邦の崩壊等,世界史的転換があっても,日本経済は躍進し,飽食,豊穣の時代を迎えました。私たちは確実に「快適さ」と「便利さ」を手に入れました。

7 しかしながら,飽食・豊穣の時代を享受した頃,教育界では,昭和50年頃から,荒れる中学生,校内暴力等のニュースがマスコミのヘッドラインをにぎわし,昭和56,57年頃(進学率も95%へと迫り),「いじめ」が一般化し,さらに,平成に入ってからは「不登校」も急増し始めました。
丁度この頃から日本経済にもかげりが見え出し,バブルのはじけは,すさまじく,ここ10年間で日本経済を根底から揺さぶり,現在の金融破綻等の危機的状況が起こっているようです。

8 昨年9月に起こった米国の同時多発テロは世界を震撼させましたが,その前の6月に起きた大阪池田小の児童殺傷事件,その前後に頻発している,弱者や年少者あるいは老人を狙ったおぞましい事件は,もはや,モラルや自制を失ったとしかいいようがない弛緩漂う大人社会を露呈し,同時にそのような閉塞的状況の中で,とりわけ,精神的に脆弱な育ち方をした小中高校生は「いじめ」や「不登校」あるいは「多様な非行」という形で,あるいは高校中途退学者13万人という形で,絶えず,「SOS」を発信し続けているように思われます。

9 そうした中で「心の教育」の必要性が高まり,過去10年間,臨教審始め,中教審そして教育改革国民会議等から,多岐に亘る提言が続き,いよいよ本格的な教育大改革が始まります。生涯学習社会や国際化時代を踏まえ,「ゆとり」をベースに,「学習の基礎・基本の定着」を図りながら,「生きる力」を育むことを最大目標に,実施まで10年の歳月を経た完全学校週5日制の下,新しい教育課程がすぐ明日から始まりますが,

10 その受け止め方や実施については,各都道府県レベルでも,あるいは,国公立や私学でも,かなりの温度差があり,横並び一線方式を良しとする向きには,戸惑いもあるものの,所詮,短絡的実践や小手先の対応では,太刀打ちできないと推測されます。
「教育は国家100年の大計」と誰かがいいました。透徹した目で,教育の現状をみきわめ,改革の原点を踏まえ,ここは,あせらず,あわてず,じっくり腰を据えることが肝要かと思われます。

11 総合的な学習の時間のあり方,選択教科の使い方,部活動への対応,土日への対応等,山積する課題を残したまま,教育界を去ることは,どこかにホッとする気持ちはあるものの,何か後ろ髪を引かれるような,申し訳ない気持ちでいっぱいでございます。すべてを私たちの後輩である先生方にお願いをし,来る31日を限りにお別れいたします。本当に長い間ありがとうございました。

12 尚,退職後は,それぞれの目標をもって引き続く人生を歩んでいくつもりでございます。
最後になりましたが,宮城県の学校教育が一層輝かしいものに発展することをお祈りし,県内各小・中・高等学校の児童・生徒の健やかな成長と幸せを期待し,本日ご臨席頂きました皆様方の,益々のご健勝をお祈り申し上げ,蕪辞ではございますが,御礼のご挨拶といたします。

平成14年3月29日
退職者代表  名取市立第一中学校 校長 阿 部 哲 男

本当にありがとうございました。


名取市教育委員会

教育長 (平成16年10月~平成20年09月)

河北新報 持論時論 2008年2月24日(日)

■ 急げ35人学級 - 負担軽く 指導にゆとり

名取市教育長 阿部 哲男(66歳・名取市)

1月18日付本紙「現代の視座」に掲載された片山善博氏の主張の一部に誤解があるのでは,と思い投稿する。
なぜ,教師は多忙感を抱えているのか。片山氏は事務処理等の雑務によるものだと指摘しているが,私はそうは思わない。確かに学校には調査や報告を要する用務は多い。その内容は児童生徒をより適切に指導するために必要な情報収集や情報累積等で,学校や市町村教委が情報を共有し指導や経営の方向性や指針を決する際の重要資料である。作業は全教職員で迅速に処理されているが,これは本務であり事務職員に代替される性質のものではない。ただし増え続けている分だけ負担が増していることも事実である。

◇   ◆   ◇

私は教師の多忙感についての真因は,生徒指導と教育相談(子も親も)への対応の難しさにあると思っている。社会の激変の中で家庭や地域社会はその教育力を著しく低下させ,メディア社会が多大な影響力を持って私たちを覆っている。このような環境を背景に基本的な生活習慣を身に付けずに入学し学習や生活につまずく子が多い。節度ある親子関係や近隣関係を築けず悩む親も増している。さらに近年は発達障害等で苦しむ親子も少なくない。生徒指導や教育相談は質量共に変ぼうしているが,その都度的確な対応が求められる。そのため多くの教師は昼夜を問わず相当の時間とエネルギーを使って指導や相談活動に向かっている。
もっと時間があれば,ゆっくり子どもたちの相談に応じたい。分かる授業の構築や新しい授業の開発に取り組みたい。学級づくりを仲間と学びたい。教師の切なる願いである。
そこで私は全国小中学校,全学年で35人学級(できれば30人)の実現を提言したい。このことで1校当たりの教員数が増え,教員一人当たり守備範囲が小さくなり,負担が軽減される。また児童生徒一人一人に心と目が届きやすくなり,よりきめ細かな指導が可能となる。さらに教材研究や学級づくりについて研究・議論する時間も確保できる。35人学級の実現は教員の多忙感解消に応えるだけでなく,児童生徒へ返ってくる。教師が自分のことを気にかけ相談に乗ってくれることで何人もの子が安心するだろう。質の高い,分かる授業で何人もの子が自分を輝かすだろう。私はそのことで現在小中学校が抱える生徒指導上の課題の3割から4割が解決されると確信する。

◇   ◆   ◇

次に教育委員会の力量についてである。やや弁解がましいが,一人の常勤の教育長と4人の教育委員(非常勤)で構成される教育委員会は月に1,2度開かれる。しかも合議制である。従ってかなりの部分は事務局に委託されており,課題の隅々まで議論し検討する時間はない。教育長の力量が問われている。
また,片山氏は県への教員の加配要請は雨ごいと揶揄しているが,もし市町村独自の財源で教員を採用した場合,任命権者の異なる彼らの人事を含めての将来は,どんな形で進められどのように補償されるのであろうか。
教育は百年の大計であり,その大切さを本気で思うなら財政における最優先度を首長が理解し具現するまで教育委員会はもっと勇気を持って立ち向かえとする片山説には真剣に耳を傾けねばなるまい。しかし,この場合,双方に高い理念と使命感の共有が要求されよう。
教育はモノを造るのではなく,人をつくっていく壮大な事業である。財源と時間と愛情をたっぷりかけ,ゆっくり醸成していきたいものである。

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